第21話 鬼の気まぐれ
伊藤美咲の言葉は、悪魔の福音のように響いた。
その場にいた全員が、一瞬、息をすることを忘れた。
赤ん坊の泣き声が「楽しい」だと?
この地獄で、鬼ごっこが「もっと楽しくなる」だと?
狂気。
純粋で、無垢で、だからこそ底知れない、絶対的な狂気が、私たちを支配していた。
加藤でさえも、その顔から表情を消し、美咲を凝視していた。
彼の築き上げた恐怖の秩序が、彼自身にも制御不能な、より上位の存在の気まぐれによって、いとも簡単に覆されようとしている。
彼のこめかみに、一筋の汗が伝うのが見えた。
若い夫婦は、もはや絶望の淵に立たされていた。
彼らの最後の希望は、赤ん坊が泣き止むことだった。
しかし、その希望は、この世界の「鬼」によって、無慈悲に打ち砕かれたのだ。
母親は、わななく唇で何かを言おうとしたが、言葉にならず、ただ赤ん坊を強く抱きしめるだけだった。
(ダメだ…このままでは、全員が殺される)
私の脳が、警鐘を乱打していた。
チーフパーサーとして、いや、一人の人間として、この狂気を見過ごすことはできない。
私は、ゆっくりと一歩、前に踏み出した。加藤の鋭い視線が突き刺さる。
しかし、私の目は、ただまっすぐに伊藤美咲だけを見つめていた。
「美咲ちゃん」
私は、できる限り穏やかな声で呼びかけた。
感情を昂らせてはならない。
あくまで、これは「遊び」なのだと、彼女に理解させなければ。
「赤ちゃんの声、大きいと、すぐに見つかっちゃうよ? かくれんぼは、静かにしないと。鬼に見つかっちゃう」
私の言葉に、美咲は不思議そうに小首を傾げた。
彼女の純粋な瞳が、私の真意を探るように、じっと見つめてくる。
心臓が、喉から飛び出しそうだった。この賭けに負ければ、終わりだ。
「…そっかあ」
やがて、美咲はぽつりと言った。
「しずかにしないと、おにが、きちゃうんだね。わかった。じゃあ、あかちゃん、しーだよ」
彼女はそう言うと、人差し指を口に当て、にっこりと笑った。
その瞬間、嘘のように、あれほど激しく泣きじゃくっていた赤ん坊が、ぴたりと泣き止んだ。
まるで、見えない何かに口を塞がれたかのように。
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