第20話 選択の時
加藤は、泣きじゃくる赤ん坊を抱く若い夫婦の前で、足を止めた。
彼の顔は能面のように無表情で、その目が何を考えているのか、誰にも読み取ることはできない。
ただ、その静けさが、嵐の前の不気味さを孕んでいることだけは確かだった。
「静かにさせろ」
低く、地を這うような声だった。
それは命令であり、最終通告でもあった。
若い母親は、涙を浮かべながら何度も頭を下げる。
「申し訳ありません、申し訳ありません…! すぐに、すぐに泣き止ませますから…!」
父親は、必死に赤ん坊に声をかけ、背中をさすっている。
しかし、極限状態にある親の焦りが伝わるのか、赤ん坊の泣き声はますます激しくなるばかりだった。
その声は、まるで警報のように、この死の世界に響き渡る。
私たちは、いつあの白い老婆が現れるかと、息を詰めて周囲を警戒した。
加藤は、無言で夫婦を見下ろしていたが、やがてゆっくりと手を差し伸べた。
その手が何をしようとしているのかを悟った瞬間、母親は悲鳴のような声を上げた。
「やめて! この子を、この子をどうするつもりですか!」
「感情を乱すものは死ぬ。この赤ん坊は、我々全員を危険に晒している」
加藤の言葉は、氷のように冷たかった。
そこには、一片の同情も、ためらいも感じられない。
彼にとって、この赤ん坊は、もはや守るべき命ではなく、排除すべきリスクでしかなかった。
「選べ」と加藤は言った。
「お前たちがその手で静かにさせるか、俺がやるか」
非情な選択だった。
それは、もはや選択とは呼べない、ただの脅迫だ。
夫婦は絶望に顔を歪め、互いの顔を見合わせた。
周囲の乗客たちは、固唾を飲んでその光景を見守っている。
誰もが、加藤の狂気を恐れ、口を挟むことができない。
その時だった。
ずっと砂場で遊んでいた伊藤美咲が、ふいに立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。
彼女はにこにこと笑いながら、泣きじゃくる赤ん坊を指さした。
「あかちゃん、げんきだねえ。もっともっと、おおきなこえでなきなよ。そしたら、おにごっこ、もっとたのしくなるからね」
その無邪気な言葉が、私たちをさらなる絶望の淵へと突き落とした。
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