第19話 息を潜めて

加藤が作り上げた歪んだ秩序は、奇妙な安定を私たちにもたらした。

いや、それは安定などという生易しいものではない。

まるで薄氷の上を歩くような、張り詰めた緊張感を伴う、死の淵での静寂だった。

私たちは互いを監視し、感情の些細な揺らぎも見逃すまいと、血走った目で睨み合っていた。

会話は消え、ただ視線とジェスチャーだけが、この凍てついた世界でのコミュニケーション手段となっていた。


誰もが、息を殺している。

咳ひとつ、くしゃみひとつすることさえ憚られた。

そんなことをすれば、加藤の、あるいは彼に媚を売る取り巻きたちの厳しい視線に射抜かれることになる。

そして、感情の乱れを指摘されれば、その先にあるのは、あの血まみれの中年男性と同じ運命だ。

私たちは、自ら進んで心を殺し、感情のない人形になることを選ぶしかなかった。


私の胸は、罪悪感で張り裂けそうだった。

乗務員として、本来であれば乗客を守り、導くべき立場にある私が、この狂気の支配を黙認している。

不正義を前に、ただ沈黙している。

しかし、動けない。

私の視線は、何度も、砂場で無心に石を積む伊藤美咲へと吸い寄せられた。

あの子が、この世界の理そのものなのだ。

あの子の機嫌を損ねることは、死を意味する。

私は、大勢の乗客の命を預かっている。

たった一人の正義感で、全員を危険に晒すことはできない。

そう、自分に言い聞かせ続けるしかなかった。


その、張り詰めた静寂を切り裂いたのは、赤ん坊の泣き声だった。

甲高い、生命力に満ち溢れたその声は、この死んだ世界ではあまりにも場違いな響きを持っていた。

若い夫婦が、顔面蒼白になりながら、必死で赤ん坊をあやしている。

しかし、一度火が付いたように泣き出した赤ん坊は、そう簡単には泣き止まない。


全ての視線が、その家族に突き刺さる。

それは、同情や憐憫の目ではなかった。

非難と、恐怖と、そして、早く静かにさせろという無言の圧力だった。

やがて、その視線の輪の中心に、ゆっくりと加藤が歩み寄っていく。

彼の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。それが、逆に何よりも恐ろしかった。

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