第2話 「繰り返される呼び出し」
午後二時を少し回った頃、またもやスマホが振動した。
画面を確認するまでもなく、どこからの連絡かは分かっている。案の定、塾のLINEグループからの通知だった。
『田中講師欠勤のため代講をお願いします』
そのぶっきらぼうな文面を見て、俺は深いため息をついた。
「また今日もか……」
声に出すと、現実味が増してますます気が重くなる。部屋の向こうから母が「どうしたの?」と声をかけてきた。
「またバイト。田中さんが休んだって」
「また? 夕飯はどうするの?」
「いらない。遅くなりそうだから」
そう告げて鞄をつかみ、家を出た。
駅前ビルの二階。塾の入口には今日も「親子セミナー」「地域奉仕活動」のポスターが貼り付けられている。学習塾の告知ではなく、地域団体のイベント告知ばかり。俺は首をひねりながらも扉を押し開けた。
控室では大学生講師たちがリラックスした様子で過ごしていた。コンビニの袋を破く音、スマホゲームの電子音、缶コーヒーの甘い香り。
「おっ、また代講? 田中さん、今月 何回目だっけ?」
「マジでクビでしょ、普通。やる気なさすぎ」
冗談半分に笑い合う彼らに、俺は苦笑いを返すしかできなかった。表面上は笑ってみせるものの、胸の奥では違和感がどんどん積み重なっていく。
授業が始まった。俺は中学生のクラスを受け持つことになった。黒板に数式を書き込みながら、生徒たちに問いかける。
「それじゃあ、この連立方程式を解くためには、まず何をすればいいかな?」
「……えっと、代入法……ですか?」
「その通り。じゃあ実際に代入してみよう」
チョークが黒板を滑る音が教室に響く。生徒たちがノートに鉛筆を走らせる音。質問を投げかけると、何人かは困ったような顔をし、何人かは懸命に考え込む。俺は一人の生徒のノートを覗き込んで、「ここ、符号を間違えてるね」と指摘した。
表向きはいつもと変わらない授業風景。だが教室の隅から、「先生、今日も田中先生じゃないんですか?」という小さな声が聞こえた。別の生徒も「そうですね、また休みなんですか?」と囁いている。
「そう、今日は俺が代わりに教えることになった」
笑顔を作って答えながら、内心は全く落ち着かない。(これだけ頻繁に欠勤していて、なぜ授業が成り立つんだ?)
生徒たちが問題に取り組んでいる間、俺は教室に漂う微妙な空気の変化をひしひしと感じ取っていた。
休憩時間。控室で缶コーヒーを開けていると、同僚の一人がぼそりと呟いた。
「田中さん、またお休み? 絶対クビになるでしょ、あれは」
「でも塾長と斎藤さんが庇ってるから大丈夫なんじゃない?」
俺がそう返すと、別の講師が肩をすくめて見せた。
「俺たちには関係ないけどね。給料さえもらえれば」
そこで会話は途切れ、彼らはまたスマホの画面に視線を落とした。違和感を抱えているのは、どうやら俺だけらしかった。
事務室の前を通りかかった時、電話で話している声が漏れ聞こえてきた。斎藤の声だ。
「ええ……彼の件については……」
それ以上は聞き取れなかった。思わず足を止めそうになったが、声をかける勇気は湧いてこなかった。その場を立ち去りながらも、胸の奥に引っかかりが残る。("彼の件"って……田中さんのことなのか?)
帰宅すると、母が鍋をかき混ぜていた。夕食の美味しそうな匂いが漂っている。
「また呼び出されたの?」
「うん。田中さんが休んで」
「その人、本当によく休むのね。私だったら心配になってしまうけれど」
「心配というより、なんか腑に落ちないんだよな」
俺は曖昧に答えて、テレビのリモコンを手に取った。
食卓を囲んでいる最中、突然ニュース速報が流れた。
『市内河川敷で20代後半とみられる男性の遺体発見』
画面には暗い河川敷の映像と、ブルーシートを広げる警察官たちの姿が映し出されている。遺体の身元は不明だが、服装や所持品から「アルバイト従事者とみられる」とだけ報道された。
「怖いわねえ」
母がぽつりと言って、すぐに別の話題に移った。
しかし俺は箸を持ったまま固まってしまった。なにか背筋に冷たいものが走る。(……アルバイト従事者?……)
理屈はないが、なにか言葉にもできない直感が働いた。が、慌てて平静を装い、無理やり食べ物を口に運ぶ。母は何も気づかずに話を続けていた。
胸の奥では、何かが音もなく疼いているのを感じていた。
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