第3話 「田中の死」
塾の更衣室に足を踏み入れた瞬間、いつもとは違う重苦しい空気に包まれた。普段なら聞こえてくるコンビニ菓子の袋を開ける音や、スマホの電子音が飛び交うだけの場所なのに、この日は明らかに様子が違っていた。
「昨日のニュースに出てた遺体、田中さんだったらしいよ」
「マジで? あの河川敷のやつが?」
「ヤバくない? 怖すぎる」
同僚たちの口から「田中」の名前が出た瞬間、俺の足が止まった。
耳を疑った。胸の奥が一瞬で氷のように冷たくなる。
「バックレかと思ってたら、そっちかよ」
冗談めかして笑う声すら混じっていた。しかし、その場にいる全員が本気で悲しんでいるわけでもなく、全体的な空気はどこか軽かった。
笑えるはずがない。俺は何も言えないまま、黙々とロッカーに荷物を仕舞った。
視線の先に、田中専用のロッカーがあった。半開きになった扉の内側には、スーツのジャケットがハンガーにかけられたまま残っている。ポケットから垂れ下がった名札のストラップが、わずかに揺れていた。
シフト表を見ると、まだ「田中」の名前が印字されている。その上に赤ペンで斜線が引かれているが、それが余計に生々しく映る。
――昨日まで確かにここにいた人間が、もうこの世にいない。
その事実が頭の中で上手く整理できず、俺はただ呆然と立ち尽くした。
授業開始前、黒木塾長が講師全員を集めた。眼鏡の奥の目はいつも通り穏やかで、声にも特別な感情は込められていなかった。
「もう知っている人もいるかと思うが、田中講師が亡くなった。詳細については警察が調査中だが……非常に残念なことだ。長い間、この塾で働いてくれていた仲間だったからね」
黒木はしばらく言葉を選ぶように間を置いた。
「保護者の方々からお問い合わせがあるかもしれない。その際は"警察が調査中のため詳細は分からない"とだけお伝えいただきたい。塾の運営については通常通り行う。……以上だ」
そう告げると軽く頭を下げ、解散を促した。
塾長としては当然の対応をしただけ。それ以上でも以下でもない。なのに俺の心は重く沈み続けていた。
授業準備で教材を運んでいる最中、廊下で斎藤とすれ違った。
「……田中くん、最近は余計なことばかり気にしすぎていたのかもしれませんね」
突然口にされた言葉に、俺の足が止まる。
「余計なこと?」
思わず聞き返したが、斎藤は曖昧な微笑みを浮かべて「さあ、どうでしょうね」とだけ言って通り過ぎていった。
心臓が激しく鼓動を打つ。一体どういう意味なんだ――。
授業が始まっても、教室の雰囲気が妙に遠く感じられた。生徒たちの笑い声や質問が、どこか別の場所から聞こえてくるようにぼやけて聞こえる。黒板に文字を書きながら、俺は昨日まで間違いなくそこに立っていたはずの田中の姿を思い返した。
無気力で、いつも欠勤ばかりしている人間。……そんな風に思い込んでいたイメージが、今日になって急激に崩れ落ちていく。黒木の言葉、斎藤の意味深な発言、同僚たちの軽い反応。全てが噛み合わない。
何かがおかしい。そう確信するしかなかった。
帰宅後、母と夕食を摂った。食卓に並んだ肉じゃがから立ち上る湯気が、やけに遠くに見える。母はテレビを眺めながら「最近は本当に物騒ね」と言った。
「……そうだな」
曖昧に相槌を打ちながらも、頭の中では田中の顔と斎藤の言葉がぐるぐると回り続けていた。
食事を終え、自室に戻って布団に潜り込む。しかし目を閉じれば閉じるほど、名札が微かに揺れる光景が鮮明に浮かび上がってきた。
俺は掛け布団を頭まですっぽりとかぶり、ただひたすら呼吸を整えようと必死になった。眠気は一向に訪れず、得体の知れない不安だけが夜を支配し続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます