『口座に落ちた影』
@blackstroke
第1話 「欠勤常習の同僚」
午後の陽射しが薄いカーテンを通り抜けて、六畳ばかりの部屋をぼんやりと照らしている。大学での講義を終えて帰宅したばかりの俺——田村健太は、肩掛け鞄を適当に椅子へ放り投げると、ベッドの縁に腰を下ろした。じわりと眠気が這い上がってきて、このまま横になってしまいたくなる。
「おかえりなさい。今日の夕飯、どうしましょうか」
台所から母の穏やかな声が聞こえてきた。年季の入った木製テーブルと年代物の電子レンジ、さらに古びた冷蔵庫だけが置かれた質素な台所で、母はいつものようにエプロンを身に着け、魚を焼く下準備をしている。
「うーん……何でもいいよ。まあ、バイトから呼び出しがあるかもしれないけど」
俺はスニーカーを脱ぎかけたまま、投げやりに答えた。
「また? 健太のバイト先の塾って、急な呼び出しが多いのね」
母が眉間に皺を寄せる。
「人手不足なんだよ。それに田中っていう講師がしょっちゅう休むから、その穴埋めで」
そんな愚痴をこぼしながら、俺はスマホを机に置いた。ベッドに寝転がって天井を見上げると、意識がすうっと遠のいていきそうになる。
――その時、LINEの通知音が響いた。
画面を確認すると、予想通り塾からの連絡だった。いつも通りの短くてぶっきらぼうな文面。
『田中欠勤につき代講お願いします。本日17時より』
「……ほら、やっぱり」
深いため息をつきながら、俺は『了解しました』と返信する。断るという選択肢はない。嫌でも"行かなければならない"のだ。母に「ちょっと出かけてくる」と声をかけ、慌ただしく着替えを始めた。
駅前にある塾の入ったビルに到着すると、入口には「親子セミナー開催」「地域奉仕活動参加者募集」といったポスターが数枚貼られている。学習塾の宣伝とは全く無縁の内容に、つい足を止めてしまった。
(塾なのに、どうしてこんなものが貼ってあるんだ?)
その違和感を心の隅に押し込めて、俺は教室へと足を向けた。講師用の控室では、同じ大学生のアルバイト仲間たちがくつろいでいる。
「おー、また代講? 田中さん、休みすぎじゃない?」
「普通だったらクビでしょ、あれ」
俺が来た理由を聞くまでもなく、彼らはそんな風に笑い合う。俺も愛想笑いを浮かべながらスーツの上着を脱ぎ、パイプ椅子に腰を下ろした。しかし、胸の奥底では何とも言えない居心地の悪さが渦巻いていた。
休憩時間になった。控室の奥で、黒木塾長と経理担当の斎藤が立ち話をしている。二人とも俺たちバイト講師の方をちらりと見ると、すぐに話を打ち切った。
「田中のことは心配無用だ」
黒木が軽い笑みを浮かべてごまかすように言う。
「彼には彼なりの事情がありますから」
斎藤も事務的にフォローを入れた。
「事情って言っても……あれだけ欠勤してるのにクビにならないなんて、ある意味すごいですよね」
誰かが冗談めかして口にした言葉に、黒木はただ肩をすくめるだけで、それ以上詳しく語ろうとはしない。その場の空気に漂う妙な重苦しさの中で、俺だけが置いてけぼりを食ったような気分になった。
授業の準備のために廊下を歩いていると、半開きになったドアの隙間から、欠勤のはずの田中がいつの間にか出てきていて、黒木と斎藤を相手に話し込んでいる姿が目に入った。
普段の田中といえば、無気力で頼りない中年男性という印象しかない。ところが今この瞬間の彼は全く違っていた。表情は真剣そのもので、眉間に深い皺を刻み、何かを必死に訴えかけているような様子だった。
会話の内容までは聞き取れなかったが、その場に漂う異様な緊張感に、俺の足は自然と止まってしまった。
(……いつもだらけてる田中さんが、こんな真剣な顔をすることがあるのか?)
思わず見入ってしまったが、気配を察知される前に慌てて足早にその場を立ち去った。
その日のバイトを終えて帰宅すると、食卓には魚の煮付けが並んでいた。母が「お疲れさま」と優しい笑顔を向けてくる。
「田中さんがまた休んで、急に呼ばれちゃった」
俺は愚痴をこぼした。
「そんな人なら、普通はクビになってしまいそうなものだけれど」
母が首をかしげる。
「そうなんだよな……」
口では同意してみせたものの、心の片隅では引っかかりが残り続けていた。田中への特別扱い、黒木と斎藤の曖昧な態度、そして欠勤のはずが塾には来ていて、あの密談めいた会話。
何かが普通じゃない――そんな確信めいたものを、俺は拭い去ることができずにいた。
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