第三章:二人だけのハウスルール
ジンのチームは奇跡的な復活を遂げた。
『黒い森のささやき』のセッションを始めてから二ヶ月。Gen-Genesisは国内リーグで連戦連勝を重ね、ついに世界大会への切符を手にしたのだ。
決勝戦の相手は、中国の強豪チーム「Dragon Phoenix」。前年度の世界チャンピオンであり、AIを駆使した完璧な戦術で知られていた。ブックメーカーのオッズは、8対2でDragon Phoenixの優位。誰もがGen-Genesisの敗北を予想していた。
その世界大会の開催地は、奇しくもドイツ、ベルリンだった。
「運命を感じないか?」とジンはビデオチャットで言った。
「君の国で、俺たちの勝負が決まる」
私は複雑な気持ちだった。もちろん、ジンとチームの勝利を願っている。でも、その頃には祖父の容態がさらに悪化していた。医師からは、「覚悟をしておいてください」と告げられていた。
そして運命の日、三月十五日。
世界大会決勝戦のまさにその日の朝、私の祖父クラウスの容態が急変した。
私は病院のベッドの傍らで、彼のか細くなった手を握りしめていた。かつて、精密な木工細工を生み出したその手は、今や骨と皮だけになっていた。でも、温かさだけは変わらなかった。
「エルザ……」
祖父が薄っすらと目を開けた。
「おじいさま、無理をしないで」
「聞いてくれ……最後に、伝えたいことがある」
彼の声は、そよ風が木の葉を揺らすようなかすかな音だった。
「わしが作りたかった、究極のゲーム……それは、勝敗のないゲームだった」
「勝敗のない?」
「そうだ。みんなが勝者になれるゲーム。いや、勝者も敗者もない、ただ一緒に物語を紡ぐゲーム。お前が送ってくれた『黒い森のささやき』を見て、確信した。お前は、わしの夢を超えた」
彼は微笑んだ。もう何日も食事を取っていないのに、その笑顔には不思議な力があった。
「でも、それだけじゃ足りない。これからの時代は、もっと大きな橋が必要だ。アナログとデジタル、東と西、過去と未来を繋ぐ橋が」
その時、私のスマートフォンが震えた。ジンからのメッセージだった。
『今、ベルリンにいる。どうしても君に会って伝えたいことがある』
私はどうすればいいのか分からなかった。祖父のそばにいてやりたい。でも、彼にも会いたい。
その時、祖父が薄っすらと目を開け、私のスマホの画面を見て言った。彼には、すべて分かっていたのだろう。
「エルザ、行きなさい」
「おじいさま……」
「わしのことはいい。わしは最高のゲームを生きてきた。百年の歴史、四代の職人、数え切れないほどの作品。そして何より、お前という最高の後継者を得た。これ以上の勝利があるか?」
彼は私の手を強く握った。最後の力を振り絞るように。
「今度はお前さんの番じゃ。最高のゲームを、最高のパートナーと楽しんできなさい。そして、新しい橋を架けるんだ。わしには見ることのできない、美しい橋を」
私は涙をこらえ、祖父のその言葉に背中を押され、ベルリンへと向かった。
高速道路を飛ばすこと三時間。私が決勝戦の会場である巨大なメルセデス・ベンツ・アリーナにたどり着いた時、試合はまさにクライマックスを迎えようとしていた。
会場は二万人の観客で埋め尽くされていた。巨大なスクリーンには、激しい戦闘が映し出されている。実況のドイツ語、英語、韓国語、中国語が飛び交い、歓声と悲鳴が波のように押し寄せる。
試合は大接戦だった。
第四ゲーム、スコアは2対1でDragon Phoenixがリード。ここで負ければGen-Genesisの敗北が決定する。画面の端には選手たちの心拍数が表示されている。KIDの心拍数は180を超えていた。極度の緊張状態。
最後の団体戦。両チームが中央で激突する。スキルのエフェクトが画面を埋め尽くし、もはや何が起きているのか素人の私には理解できない。しかし、状況が悪いことは分かった。Gen-Genesisのヘルスバーが見る見るうちに減っていく。
その時、ジンがタイムアウトを取った。
選手たちがヘッドセットを外し、円陣を組む。ジンは静かに、しかし力強く語りかけた。その言葉は、会場のスピーカーからも流れてきた。
「いいか、今から言う作戦は、AIが推奨するものじゃない。データ分析的には、成功率30%以下だ。でも、俺は信じる。お前たちの力を、絆を」
彼は一人一人の目を見た。
「思い出せ! 黒い森で俺たちが教わったことを!」
選手たちの表情が変わった。
「勝敗じゃない。大切なのは、今この瞬間を、仲間と共に全力で生きることだ。俺たちは一人じゃない!」
そして、彼は最後に叫んだ。
「楽しめ、この最高のゲームを!」
タイムアウト明け。
Gen-Genesisの動きが変わった。それは、理論的には非効率的な、しかし美しいまでに統率の取れた動きだった。五人が完全にシンクロし、まるで一つの生命体のように動く。
KIDが前に出る。無謀とも思える突撃。しかし、それは計算された捨て身の攻撃だった。彼が敵の注意を引きつけている間に、他の四人が完璧な包囲網を築く。
「今だ!」
ジンの指示と同時に、四人が一斉に攻撃を仕掛けた。画面が光で満たされる。そして、次の瞬間――
『Victory』
その文字が画面に浮かび上がった瞬間、会場が爆発した。二万人の歓声が、アリーナを揺るがす。選手たちは抱き合い、泣いていた。KIDは膝をついて、天を仰いでいた。
チームは奇跡的な大逆転勝利を収めた。第五ゲームでも勢いは止まらず、Gen-Genesisは世界チャンピオンの座を手にしたのだ。
会場が歓喜の渦に包まれる中、ジンは観客席にいる私の姿を見つけた。彼の目が大きく見開かれた。まさか、本当に来てくれるとは思っていなかったのだろう。
彼はまっすぐにこちらへと歩いてきた。選手たちも、観客も、すべての視線が彼に集まる。そして彼は、満員の観客の前でマイクを握り、叫んだ。
「今日の勝利は、僕たちの女神のおかげです!」
スポットライトが私を照らす。二万人の視線が一斉に私に向けられた。顔が真っ赤になったが、逃げることはできなかった。
ジンは続けた。声が震えていた。感動か、緊張か、それとも別の感情か。
「皆さんに紹介したい人がいます。エルザ・シュミット。ドイツの伝統的なボードゲーム職人であり、僕たちの心を救ってくれた人です」
彼は私の手を取った。その手は、汗で濡れていた。
「エルザ、君なしでは今日の勝利はなかった。君が教えてくれた。ゲームの本質は勝つことじゃない、繋がることだと」
彼は深呼吸をして、続けた。
「僕と一緒に、世界で一番面白いゲームを作ってくれませんか? アナログとデジタルの壁を越えた、誰も見たことのないゲームを。僕とあなたの、二人だけの新しいゲームを」
会場がざわついた。これは告白なのか、ビジネスの提案なのか、それとも――
「これは、プロポーズです」
ジンがはっきりと言った。
「ゲーム・デザインのプロポーズであり、人生のプロポーズです。僕と一緒に、新しいルールを作ってください。二人だけのハウスルールを」
会場が静まり返った。二万人が固唾を呑んで、私の答えを待っている。
私の頭は真っ白だった。でも、心は不思議なほどクリアだった。祖父の言葉が蘇る。
「新しい橋を架けるんだ」
私は涙で濡れた顔のまま、マイクを受け取った。
「はい」
たった一言。でも、それがすべてだった。
「はい、一緒に作りましょう。世界一面白くて、世界一優しいゲームを」
会場が再び爆発した。
拍手、歓声、口笛。
まるでもう一つの勝利を祝うかのように。
ジンは私を抱きしめた。大勢の前で、カメラの前で、全世界の前で。
「ありがとう」と彼は囁いた。
「君と出会えて、本当に良かった」
その夜、私たちはベルリンの小さなバーで、チームの選手たちとささやかな祝勝会を開いた。KIDが初めて見るはちきれんばかりの笑顔で、「エルザさんのおかげです」と言ってくれた。他の選手たちも、口々に感謝の言葉を述べた。
そして深夜、私の携帯が鳴った。
病院からだった。
「お祖父様が、お待ちです」
私とジンは、急いで病院へ向かった。
祖父はまだ意識があった。私が病室に入ると、微笑んだ。
「おかえり、エルザ。良い顔をしている」
「おじいさま、この人がジンです。私の――」
「分かっている」
祖父は頷いた。
「君がジン君か。エルザから話は聞いている」
ジンは深く頭を下げた。
「初めまして。エルザには本当にお世話になりました」
「君たちの試合、看護師さんに頼んで見せてもらった」
祖父は言った。
「素晴らしかった。あれこそ、真のゲームだ」
彼は私たちの手を取って、重ね合わせた。
「二人で、新しい橋を架けなさい。アナログとデジタル、東と西、過去と未来を繋ぐ橋を。それが、わしからの最後の……いや、最初の宿題だ」
その夜、祖父は安らかに旅立った。
最後まで、微笑みを浮かべたまま。
まるで、最高のゲームをクリアしたプレイヤーのように。
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