第二章:画面越しの共犯者

 見本市が終わり、私は黒い森の工房に、ジンはネオンのソウルに、それぞれ帰っていった。

 

 もう二度と会うこともないだろう。そう思っていた。

 

 あの一夜は、まるで真夏の夜の夢のような、現実離れした出来事だった。私は再び、一人静かに木を削る日々に戻った。しかし、手の中で生まれていくコマたちが、以前とは違って見えた。このトールの槌は、もしかしたら画面の中で稲妻のエフェクトと共に振り下ろされたら、どんなに壮観だろうか。そんな想像が、頭をよぎるようになっていた。

 

 だが数週間後、運命は再び動き出した。

 

 十一月の冷たい雨が、工房の窓を叩く午後。私の元にジンから一通の国際メールが届いた。


 件名は、たった一言。「Help」

 

 『エルザ。力を貸してほしい』

 

 メールには、彼のチーム「Gen-Genesis」が直面している危機が綴られていた。秋のワールドチャンピオンシップで準優勝を果たしたものの、チームは深刻な内部崩壊の危機に瀕していた。

 

 特に問題なのは、チームの絶対的エースプレイヤー「KID」だった。本名キム・ドンヒョク、十九歳。韓国eスポーツ界の至宝と呼ばれる天才プレイヤー。一秒間に十二回のクリック、0.08秒の反応速度、そして何より、AIですら予測不可能な創造的なプレイスタイル。彼は間違いなく世界最高のプレイヤーの一人だった。

 

 しかし、極度のプレッシャーから彼は心を閉ざしてしまった。練習には参加するものの、一言も喋らない。チームメイトとの連携も機械的で、かつての創造性は失われていた。

 

 『医師の診断では、急性ストレス障害の可能性があるという。カウンセリングも受けさせたが、効果はなかった。AIによるデータ分析も、どんな合理的なアドバイスも、彼の凍てついた心を溶かすことはできない』

 

 ジンの文章から、深い苦悩が伝わってきた。

 

 『、もしかしたら、。あの夜、君のゲームをプレイして思ったんだ。デジタルの世界で失われてしまった何か大切なものが、そこにはあると』

 

 私は躊躇した。eスポーツの世界など、私には関係ない。韓国まで行く時間もお金もない。そもそも、私に何ができるというのか。

 

 しかし、メールに添付された一枚の写真を見て、私の心は決まった。それはKIDの写真だった。まだあどけなさの残る顔に、深い疲労の影。その瞳は、まるで私に直接助けを求めているようだった。

 

 いや、違う。私が本当に見たのは、その奥にいるジンの姿だった。選手を救えない自分を責め、苦悩する指導者の姿が、透けて見えた気がした。

 

 私は返信した。

 

 『分かりました。でも韓国には行けません。代わりに、これを送ります』

 

 私は工房の奥から、一つの木箱を取り出した。その中には、まだ世に出していない試作品が入っていた。勝敗もルールもほとんどない。ただ自分の気持ちを表すカードを出し合い、それについて自由に物語を語るというコミュニケーション・ゲーム。

 

 タイトルは『黒い森のささやき』。

 

 これは祖父クラウスが晩年に構想していたものを、私なりにアレンジしたものだった。彼は戦争で心に傷を負った人々のために、このゲームを作ろうとしていた。言葉にできない想いを、カードという媒介を通じて表現する。それがこのゲームの本質だった。

 

 カードには様々な感情や状況が、抽象的なイラストと共に描かれている。「霧の中を歩く」「壊れた橋」「芽吹く種」「嵐の海」……プレイヤーはこれらのカードを使って、自分の今の心境を表現する。正解はない。ただ、語ることだけが目的だ。

 

 私はゲームと共に、詳細な説明書を同封した。そして最後にこう書き添えた。

 

 『大切なのは、勝つことではありません。繋がることです。彼らの声に、ただ耳を傾けてください』


 それから私とジンの奇妙な遠距離での共同作業が始まった。

 

 時差は八時間。私がドイツの森の中で夜を迎える頃、ジンはソウルの朝日と共に目覚める。私たちは毎晩ビデオチャットを繋ぎ、その不思議なゲームをチームの選手たちとプレイした。

 

 最初のセッションは散々だった。

 

「何だよこれ、子供の遊びかよ」

「勝ち負けもないゲームに意味あんの?」

「時間の無駄だろ」

 

 選手たちは露骨に不満を示した。特にKIDは、カードを見ようともせず、ただ黙って座っているだけだった。

 

 しかし私は諦めなかった。画面越しに、できるだけ優しい声で語りかけた。

 

「このカードは、あなたたちのためのものじゃありません。あなたたち自身のためのものです。誰かに見せるためじゃない。自分と向き合うためのツールなんです」

 

 三日目の夜、変化が起きた。

 

 チームのサポート役を務めるイ・スンホが、おずおずとカードを一枚選んだ。「重い鎖」のカード。

 

「俺……いつも皆の足を引っ張ってる気がして……」

 

 彼の告白を皮切りに、選手たちが少しずつ口を開き始めた。ゲームを通して、彼らは初めて互いの弱さや不安、プレッシャーを吐露し始めたのだ。

 

「俺、本当はチームリーダーなんて器じゃない」

「ミスするのが怖い。一回のミスで、みんなの努力が無駄になる」

「ファンの期待が重すぎて、息ができない時がある」

 

 そして五日目の夜。ついにKIDが動いた。

 

 彼は震える手で、一枚のカードを選んだ。「檻の中の鳥」。

 

「僕は……」

 

 彼の声は、か細く震えていた。

 

「僕は、ゲームが好きだった。ただ、楽しくて、夢中になって、気がついたらプロになっていた。でも今は……勝たなきゃいけない。期待に応えなきゃいけない。僕がミスしたら、チームが負ける。スポンサーが離れる。ファンが失望する。僕は……僕は……」

 

 彼は泣いていた。十九歳の少年の、押し潰されそうな魂の叫びだった。

 

「もうゲームが。画面を見るのも。でも、。だって僕には

 

 静寂が流れた。誰も何も言えなかった。

 

 その時、ジンが口を開いた。

 

「KID、俺も同じだった」

 

 全員が驚いてジンを見た。彼が自分の過去を語るのは、初めてだった。

 

「俺がプロを辞めた本当の理由……それは、ゲームが憎くなったからだ。勝利への執着が、俺を壊していった。毎晩悪夢を見た。負ける夢、ミスする夢、ファンに罵倒される夢、自分の技術不足に絶望する夢……」

 

 ジンは一枚のカードを取った。


「割れた鏡」。

 

「俺は自分を見失っていた。鏡に映る自分が、誰だか分からなかった。ただ勝つためだけの機械。それが俺だった」

 

 彼は続けた。

 

「でも、エルザと出会って気づいたんだ。ゲームは、勝つためだけのものじゃない。人と繋がるため、楽しむため、そして自分を表現するためのものだって。KID、お前は一人じゃない。俺たちはチームだ。家族だ。

 

 KIDの目から、止めどなく涙が流れていた。しかしそれは、もう苦痛の涙ではなかった。


 私は、ただ彼らの声に耳を傾けていた。そしてジンは、彼らのその心の叫びをデータではなく、魂で受け止めていた。

 

 セッションを重ねるごとに、チームは少しずつ絆を取り戻していった。彼らは『黒い森のささやき』を通じて、勝利やスキルといった表層的なものの奥にある、もっと大切な何かを再発見していったのだ。

 

 それは、仲間への信頼。

 ゲームへの純粋な愛。

 そして、自分自身であることの勇気。

 

 ある夜、選手たちが寝静まった後、私とジンは二人きりでチャットを続けていた。

 

 ソウルは深夜、シュヴァルツヴァルトは夕暮れ時。画面の向こうで、ジンが言った。

 

「ありがとう、エルザ。君は俺のチームを救ってくれた。いや、俺自身を救ってくれたんだ」

 

「私は何もしていないわ。ただ、場を提供しただけ」

 

「いや、違う。君は俺たちに、忘れていた大切なものを思い出させてくれた」

 

 彼は少し間を置いて、続けた。

 

「実は、俺がプロを引退した時、

 

 私は息を呑んだ。

 

「漢江の橋の上に立った。冬の夜だった。川面は黒く、街の光が冷たく反射していた。もう、これ以上生きている意味がないと思った。ゲーム以外、何もない人生。そのゲームさえ、俺を苦しめるだけだった」

 

 彼の告白は続いた。

 

「でも、死ねなかった。怖かったんじゃない。むしろ、生きている方が怖かった。でも、まだやり残したことがある気がした。それが何か、分からなかったけど」

 

 彼は微笑んだ。画面越しでも分かる、優しい笑顔だった。

 

「今、分かった。俺がやりたかったのは、誰かを救うことだった。かつての俺のように、ゲームに押し潰されそうな誰かを。君と出会って、君のゲームを知って、初めてその方法が分かった」

 

「ジン……」

 

「君と出会えて良かった、エルザ」

 

 その彼の痛切な告白に、私は胸が締め付けられた。そして気づけば、私も自分のことを話していた。

 

「私も、実は逃げていたのかもしれない」

 

「逃げていた?」

 

「ええ。この森に籠もって、一人で作品を作って……それは確かに幸せだった。でも、どこかで世界から目を背けていた。デジタル化の波、グローバル化、すべてを否定して、

 

 私は窓の外を見た。黒い森が夕闇に沈んでいく。

 

「祖父が重い病に冒されているの。膵臓癌、ステージ4。もって半年と言われている」

 

「エルザ……」

 

「祖父はいつも言っていた。ゲームは橋だって。人と人、心と心を繋ぐ橋。でも私は、その橋を狭く小さくしていた。アナログだけが正しいと信じて、デジタルの世界を拒絶して。祖父が見たら、きっと悲しむでしょうね」

 

 涙が頬を伝った。

 

「でも、あなたと出会って分かった。橋は一本じゃない。アナログの橋も、デジタルの橋も、どちらも大切。そして時には、その二つの橋を繋ぐ、新しい橋が必要なのかもしれない」

 

 私たちは互いの心の一番柔らかく繊細な部分を見せ合っていた。物理的には数千キロ離れていても、心の距離はゼロだった。

 

 画面越しの共犯者。

 それがその時の私たちの関係だった。

 

 そして、私たちはまだ気づいていなかった。


 この瞬間、すでに新しい橋の設計図が、二人の間で描かれ始めていることに。

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