第一章:運命のダイスロール

  毎年秋にドイツの工業都市エッセンで開催されるこのイベントは、世界中のゲーム愛好家にとっての聖地だ。四日間で二十万人が訪れ、千を超える出展社が新作を発表する。会場となるメッセ・エッセンの巨大なホールには、ありとあらゆるゲームが所狭しと並んでいる。戦略ゲーム、パーティーゲーム、協力ゲーム、そして私のような職人が作る芸術的なゲームまで。

 

 私は自分の工房「HolzSpiel」のブースで、今年の新作の発表を行っていた。

 

 タイトルは『ラグナロクの黄昏』。


 北欧神話の終末戦争をテーマにした重量級の戦略ゲームだ。プレイ時間は三時間から四時間。各プレイヤーは神々や巨人、人間たちを操り、世界の運命を決める最終決戦に挑む。

 

 このゲームの特徴は、勝利条件が一つではないことだった。


 軍事的勝利、文化的勝利、そして「美しい終末」という独特な勝利条件。これは北欧神話の世界観――すべてが滅びることが定められているという宿命論を、ゲームメカニクスとして表現したものだった。時に。それが私の込めたメッセージだった。

 

 ゲームボードには、ユグドラシルの世界樹を中心に九つの世界が精密に彫刻されている。各世界を繋ぐ虹の橋ビフレストは、薄い真鍮の板で表現した。光の加減によって七色に輝くその橋は、見る者を神話の世界へと誘う。

 

「素晴らしい職人技ですね」

 

 初老の紳士が、ルーペでコマを覗き込みながら感嘆の声を上げた。彼はイギリスから来たコレクターで、私の作品の常連客だった。

 

「このオーディンのコマ、片目がサファイアですか?」

 

「ええ、知恵の泉と引き換えに片目を失った神話を表現しました。それぞれのコマには物語が宿っているんです」

 

 私がそう説明していると、騒がしい一団が近づいてきた。黒いユニフォームに身を包んだ若者たち。胸には稲妻のようなロゴ――「Gen-Genesis」のエンブレムが光っている。

 

 その先頭に立っていたのが、彼だった。

 パク・ジン。

 

 実物の彼は、モニター越しに見るよりもずっと小柄だった。しかし研ぎ澄まされた刃物のような鋭さがあり、周囲の空気を切り裂くような存在感を放っていた。黒縁の眼鏡の奥の瞳は、すべてを数値化し分析するスキャナーのようだった。

 

 彼は数人の部下を引き連れ、eスポーツのプロモーションを兼ねてこのアナログの祭典を視察しに来ていたのだ。ドイツの大手スポンサーとの商談のついでだと、後で聞いた。

 

 彼は私のゲームの美しい木製のコマを一つ、指先でつまみ上げた。フェンリルを象った黒檀のコマ。牙には本物の象牙を使い、瞳には小さなルビーが埋め込まれている。彼はそれをまるで珍しい昆虫でも見るかのように眺め、そして冷ややかに言い放った。


「これを動かすのにサイコロを振るんですか?」

 

 その口調には明らかな軽蔑が含まれていた。まるで原始人の石器を見るような、文明人特有の優越感。

 

「ええ、そうよ。それが何か?」

 

 私は努めて冷静に答えたが、心の中では怒りが沸騰していた。

 

。これではプレイヤーの純粋なスキルが勝敗に反映されない。と言っているんです」

 

 彼は続けた。

 

「現代のゲーム理論では、完全情報ゲームこそが究極の競技だとされています。チェスや囲碁のように、すべての情報が開示され、運の要素がゼロのゲーム。それに比べて、これは――」

 

 彼はサイコロを指で弾いた。象牙製の美しいサイコロがテーブルの上を転がり、「6」の目を見せて止まった。

 

「――ただのギャンブルじゃないですか」

 

 そのあまりにも無礼で見下したような物言いに、私の中の何かがキレた。

 

「あなたたちのやっていることは何ですって?」

 

 私は精一杯の皮肉を込めて言い返した。

 

「ただマウスやキーボードで画面を叩くだけの反射神経ゲームでしょう? 高速のモグラ叩きと何が違うのかしら? パブロフの犬のように条件反射で動くだけ。そこに温もりや物語はあるのかしら?」

 

 会場がざわついた。

 周囲の来場者たちが、二つの世界の衝突を固唾を呑んで見守っている。

 

「ありますよ」

 

 ジンの声は氷のように冷たかったが、その冷たい瞳の奥に初めて熱い光が宿ったのを私は見た。

 

「僕たちの世界には、あなたたちの想像を絶するドラマと情熱がある。0.1秒の判断ミスが勝敗を分ける極限の世界。五人のチームメイトが完璧にシンクロし、一つの生命体のように動く瞬間の美しさ。それは、サイコロなんかじゃ決して味わえない、人間の可能性の極致なんだ」

 

「人間の可能性?」


 私は鼻で笑った。


「あなたたちがやっているのは、プログラムされた最適解を実行するだけでしょう。AIに教えられた通りに動く。それのどこが人間的なの?」

 

「最適解を実行する?」


 今度はジンが笑った。


「あなたは何も分かっていない。eスポーツの本質は、相手の心理を読み、裏をかき、時には理論を超えた直感的なプレイで勝利を掴むことだ。それは――」

 

 彼は私のゲームボードを見下ろした。

 

「――あなたの作るこの美しくくだらないおもちゃよりも、ずっと複雑で深遠な心理戦なんだ」

 

 水と油。

 黒い森とネオンの街。

 私たちの最初の接触は、互いの世界への無理解と軽蔑だけを残して終わった。

 

 だがその夜。

 運命の女神フォルトゥナ(あるいは北欧神話の運命の女神ノルン)は、私たちに悪戯なダイスロールを仕掛けてきた。


 見本市のアフターパーティーは、エッセンの古い醸造所を改装したイベントホールで開催された。ドイツビールが川のように流れ、各国のゲームデザイナーたちが言葉の壁を越えて交流している。私は一人、バルコニーで夜風に当たっていた。

 

「一人で飲むのがお好きですか?」

 

 振り返ると、ジンが立っていた。先ほどとは違い、ユニフォームを脱いだ彼は普通の青年に見えた。手にはヴァイツェンビールのグラスを二つ持っている。

 

「和解の印です。受け取ってもらえますか?」

 

 私は黙ってグラスを受け取った。小麦の香りが鼻をくすぐる。

 

「さっきは失礼なことを言いました」と彼は続けた。


「でも、本心です。僕にはあなたの世界が理解できない」

 

「私もよ」と私は答えた。


「あなたの世界は騒がしすぎる」

 

 二人で黙ってビールを飲んでいると、ホールの中から歓声が上がった。誰かが持ち込んだゲームで盛り上がっているらしい。

 

「賭けをしませんか?」


 突然ジンが言った。

 

「賭け?」

 

「お互いのゲームで勝負しましょう。まず、あなたの『ラグナロクの黄昏』。次に、僕たちのeスポーツ。負けた方が、相手の世界を認める」

 

 それは子供じみた提案だった。

 でも、アルコールのせいか、それとも彼の挑戦的な眼差しのせいか、私は頷いていた。

 

「いいわ。でも覚悟なさい。私は祖父直伝の戦略を持っているから」

 

「僕だって、AIが解析した完璧な戦術がある」

 

 私たちは握手を交わした。その手は、思っていたよりも温かかった。


 まずは私のフィールド。

『ラグナロクの黄昏』。

 

 パーティー会場の片隅に場所を確保し、ゲームボードを広げた。すぐに観客が集まってきた。東洋のeスポーツチャンピオンと、ドイツの伝統的なゲーム職人の対決。それは確かに見世物としては面白かっただろう。

 

 ジンは最初、サイコロの出目に一喜一憂するアナログなゲームを完全に馬鹿にしていた。

 

「また1か。この偏ったサイコロ、不良品じゃないですか?」

 

「それは確率の偏りです。真の乱数は、人間には偏って見えるものよ」

 

 私は微笑みながら、着実に領土を広げていった。しかしゲームが進むにつれて、彼の表情が変わっていった。彼は気づき始めたのだ。このゲームの本質が運などではないということに。

 

 サイコロの出目は確かに運だ。しかしそのリスクをどう管理するか、いつ大胆な賭けに出るか、それは純粋な戦略の領域だった。さらに、相手の表情を読み、ブラフを見抜き、時に大胆な交渉を仕掛けるという高度な対人心理戦。

 

「待ってください」


 ジンが私の手を止めた。


「今、あなた、?」

 

「さあ、どうかしら」

 

 私はポーカーフェイスを保ったが、内心では驚いていた。彼は私の仕掛けた罠に気づいたのだ。それは祖父から教わった『』という高等戦術だった。

 

 ゲームは白熱した。ジンは持ち前の分析力で私の戦略を読み解き、的確な対抗策を打ってくる。一方で私は、彼の論理的思考の裏をかく直感的なプレイで応戦した。

 

 観客たちも息を呑んで見守っている。モニターの中では決して味わうことのできない、人間の心の揺らぎ。嘘と真実、計算と直感、理性と感情が複雑に絡み合う様を、ジンは初めて体験していた。

 

 そして何よりも、ゲームを心から楽しそうにプレイする私の笑顔に、彼は魅了されていったのかもしれない。

 

「これは……」


 ジンが呟いた。


「完全情報ゲームより複雑だ」

 

 最終的に私が勝利したが、それはほんの僅差だった。もう一度やれば、結果は分からなかっただろう。


 次にジンのフィールド。

 

 私たちはホテルのビジネスセンターのPCを借り、彼がコーチを務める5対5の戦略シミュレーションゲーム「Eternal Warfare」をプレイすることになった。世界で最もプレイヤー数の多いeスポーツタイトルの一つだ。

 

「基本的なルールは簡単です」


 ジンが説明した。


「五人一組のチームで、相手の本拠地を破壊すれば勝ち。でも――」

 

 画面に表示されたキャラクター選択画面を見て、私は目眩がした。百五十体以上のキャラクター、それぞれが持つ四つのスキル、数百種類のアイテム、それらの組み合わせは天文学的な数字になる。

 

「覚えることが多すぎる……」

 

「大丈夫です。僕がサポートします」

 

 ジンは私の隣に座り、ヘッドセットを渡した。彼の声が耳元で響く。

 

「まず、呼吸を整えて。画面全体を見るんじゃない。自分のキャラクターと、その周囲だけに集中して」

 

 私は彼の言葉に従った。最初は画面の激しい動きについていけず、すぐにキャラクターが倒されてしまう。しかし、ジンの的確なコーチングを受けるうちに、少しずつゲームの流れが見えてきた。

 

「今! スキルを使って!」

 

 彼の指示で放った攻撃が、敵を仕留めた。画面に「First Blood」の文字が輝く。初めてのキル。予想外の達成感が全身を駆け抜けた。

 

「やった!」

 

 思わず声を上げた私を見て、ジンが微笑んだ。それは今日初めて見る、心からの笑顔だった。

 

 しかし本当の発見はその後だった。ヘッドセット越しに、見ず知らずの仲間たちと連携するうちに、私は気づいていく。このゲームがただの個人技ではないということに。

 

「カバーお願いします!」

「了解、今行く!」

「ナイスセーブ!」

「みんな、集合して。一気に行こう」

 

 顔も名前も知らない仲間たち。でも、この瞬間、私たちは一つの目標に向かって心を合わせている。それは、オーケストラの演奏にも似た一体感だった。個々の技術はもちろん重要だが、それ以上に大切なのはハーモニー。全員が自分の役割を理解し、完璧なタイミングで行動する。

 

 仲間を信じ、自分の役割を果たし、全員で勝利という一つの目標を目指す究極のチームスポーツ。画面の向こう側にいる、まだ顔も知らない仲間との間に生まれる熱い連帯感。それは私が一人工房で感じていた静かな創造の喜びとは全く違う種類の、爆発的な感動だった。

 

「これは……」


 私は息を呑んだ。


「現代の戦争シミュレーションね。いえ、もっと根源的な何か……」

 

「部族の狩りですよ」


 ジンが言った。


「人類が太古の昔から持っている、集団で獲物を追う本能。それがデジタル化されたものかもしれません」

 

 試合は負けたが、私の頬は興奮で紅潮していた。


 ゲームは夜明けまで続いた。

 

 私たちは交互に、互いの世界のゲームをプレイした。チェスのようなアブストラクトゲーム、人狼のような正体隠匿ゲーム、リアルタイムストラテジー、MOBA、FPS……あらゆるジャンルのゲームを体験し、議論し、時に激しく口論した。

 

「でも結局」


 私は言った。


「デジタルは0と1の世界でしょう。そこに偶然性の美しさはない」

 

「偶然性?」


 ジンは眉をひそめた。


「疑似乱数生成器の方がサイコロより優れています。メルセンヌ・ツイスタなら2の19937乗マイナス1という途方もない周期を持つ」

 

「それは本当の乱数じゃない。計算で作られた偽物よ」

 

「では本当の乱数とは? 量子力学的な不確定性? でもそれだって、隠れた変数理論が正しければ――」

 

 議論は哲学的な領域にまで及んだ。

 決定論と自由意志、アナログとデジタル、連続と離散……

 

 窓の外が白み始めた頃、私たちは疲れ果てて、ソファに並んで座っていた。

 

 勝敗はつかなかった。

 いや、

 

 私たちは互いの世界の豊かさと、その根底に流れる共通の情熱に気づいてしまったのだから。

 

「人を熱狂させたい。人と繋がりたい」

 

 その純粋な想いに、アナログもデジタルも関係ないのだと。

 

「エルザ」


 ジンが静かに言った。


「あなたの作るゲームは、芸術品だ。一つ一つのコマに魂が宿っている」

 

「ジン」


 私も答えた。


「あなたたちのプレイは、まるでバレエのようだった。人間の反射神経の限界に挑む、美しい舞踏」

 

 私たちはどちらからともなく笑い合っていた。

 

 それは二つの異なる世界が初めて手を取り合った瞬間だった。朝日が窓から差し込み、私たちの間に架かった見えない橋を黄金色に照らし出していた。

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