第2話 ケース① あるサキュバスの被害者視点
カラカラ、と乾いた音を立てて扉が開いた。
しんと静まり返った教室は、まだ使われる予定のない教室で、二学期から魔学の授業で使用されると聞いている。
こんなこともあろうかと、入学前から人気のない教室をリサーチしていた。
私の後ろを、無防備な足取りでついてくる少女がひとり。
――神代ほのか。
彼女はあろうことか、自己紹介の時に“この学校”で恋人募集と言い放ったのだった。
人間族の少女がそんな言葉を口にするなど、自らを獲物として晒し出すようなもの。
異種族から見れば、それは永炎の荒野に湧き出した月晶の泉のような、取り合い必至の存在。
私は運が良かった。
席が隣だったため、声をかける機会も誰よりも早く掴んだ。
あのまま放置していれば、ほのかはあっという間に誰かのものにされていただろう。
「なんだか暗いね」
ほのかはきょろきょろと周囲を見回しながら、まるで散歩にでも来たかのように呑気な声を漏らした。
その無防備さに、思わず口元が歪む。
今から自分がどうなるかも知らない――哀れな子羊。
私は手首をそっと掴み、ほのかを壁へと押し付けた。
驚くほど細い手首は、ほんの少し力を込めれば折れてしまいそうだ。
「ほのか、私の目を見なさい」
赤い瞳に魔力を込める。サキュバスの特性――魅了の魔眼。
魔眼に触れられた者は、意志に関係なく従ってしまう。
私の魔眼は一族でも群を抜く力を持ち、同種のサキュバスすら抗えないほどだ。
10秒ほど互いの視線が絡み合う。
「……」
至近距離で見つめ返してくるほのか。
光に透ける柔らかな栗色の髪、澄んだ琥珀のような瞳、ほんのり桜色の唇。
どれも、あまりに無防備で心がざわつく。
「ふふ……これでもう、あなたは私の虜よ」
今からこの人間が私のものになる――そう思うと胸の奥が熱く滾り、興奮が抑えきれない。
「さあ、服を脱ぎなさい、ほのか」
新雪に自分だけの足跡を刻むような高揚感が、胸をいっぱいにする。
「? どうして?」
しかし、ほのかは不思議そうに首を傾げるのみだった。
「なっ……!?」
――効いてない?
「……手加減しすぎたかしら。もう一回!」
私としたことが、あまりの興奮で力を弱めてしまったのかもしれない。
再度、魔眼に力を込める。
今度は先ほどよりも強めに。
普通の人間なら三日三晩、愛欲に溺れるだろう。
「……?」
しかし、ほのかは先ほどと変わらない様子で見つめるだけだった
「き、効かない……!? なんで!? 私の魔眼が……っ」
ありえない状況に頭が真っ白になる。
そんな私の状況を知ってか知らずか、目の前のほのかは、先ほどとまったく表情を変えず、ただ呑気に首を傾げるばかり。
「よくわからないけど……友達になりたいってこと?」
ぽやんとした笑顔で、ほのかが左手を差し出してきた。
「じゃあ、握手」
彼女の手は、ふわりと空いている私の手を包み込み、ぎゅっと恋人繋ぎに変わる。
――ただの握手。そう思ったのはほんの一瞬だけだった。
触れ合った掌から、何かがじわじわと染み込んでくる。
熱とも痺れともつかない、正体不明なもの。
指先から腕へ、肩へ、心臓へ。ゆっくりと侵食していくそれは、抗えないくらい心地よい。
ぞわぞわとした感覚が走り、次の瞬間――電流が流れたような衝撃が体を貫く。
「……っ!」
臍の下がずぐん、と疼く。
神経を通って魂にまで刻み込まれるような甘い疼痛、抗えない快楽が身体の芯へと突き刺さっていく。
握られた手の指が、ゆるやかに動く。
指と指の隙間を弄ばれ、絡め取られるたびに、ぞわり、と熱が皮膚から心の奥へ進んでいく。
触れ合うだけで、胸の奥に多幸感が溢れ出し、頭の中が霞んでいく。
――ありえない。
サキュバスである自分が、他者から、しかも人間に快楽を与えられているだなんて。
屈辱と羞恥がプライドを刺激し、反抗心を呼び覚ます。
必死に足に力を込め、手を振り解こうとする――その瞬間。
腰に、ぎゅ、と回された腕。
それだけで、身体から力が抜けた。
反抗の炎は一瞬で掻き消され、胸の奥に残ったのは、どうしようもない従順の衝動。
抵抗心は砕け散り、代わりに甘い服従が体中に満ちていく。
「……あ」
声にならない吐息が漏れる。
視線を上げれば、そこに浮かんでいたのは、残酷なまでに優しい微笑。
その笑顔ひとつで、私の心は撃ち抜かれた。
理解した。
これは敗北ではない。
これは――甘美なる恭順。
握手ひとつで、魂ごと絡め取られてしまったのだ。
「じゃあ教室に戻ろうか」
ほのかそうが言う。
「……は、はい」
気づけば、私は親を見つけた雛鳥のように、ただ付いて行くことしかできなかった。
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