第一章 海藻の呪縛
風の向きを読むには、音の濃さを見る。
牧野圭祐は、そう教わったことを思い出しながら、裂け目だらけの金網フェンスをくぐった。入り江を見下ろす高台、神浦の海洋資源開発研究所――かつて「未来の海」を謳った施設は、いまや海風の倉庫に成り下がっている。
コンクリートの水槽が四列に並び、底には帯状の黒い染み。乾ききった藻類の跡は、まるでそこにいたものの輪郭だけを残すチョーク線だ。水位計は赤錆に埋もれ、計器盤には剥がれかけた警告ラベル。「滅菌」「高圧」「取扱注意」。どれも役目を終え、それでも周囲を脅かし続ける言葉たち。
田所刑事は、無言で鍵の壊れた扉を押し開けた。事務棟の床には湿った紙束が広がっている。足を置くたび、紙が低い呻きを漏らす。拙速な撤収か、それとも意図した散乱か。牧野は、どちらにしても「急いでいた」痕跡だと判断する。
「二年で突然閉鎖、理由は非公表。国の補助金が入っていたらしい」
田所は、短く言う。町に染みついた不信が、その一言の背後で呼吸していた。
焼却炉跡の灰は、まだ風で片づけられていない。牧野は膝をつき、指先で灰の表皮をそっとめくる。焦げた紙片が出てきた。「実験報告書 No.73」。炭化した端を避け、中央に残るインクの影を拾い読む。
――遺伝子組換え株K-03、異常な成長速度を示す。フコイダン含有量の増加を確認。他種藻類への強いアレロパシー反応。生態系への影響は予測不能。厳重な管理を要す――
指の腹がひやりとする。灰の冷たさのせいだけではない。
「ただの増養殖じゃない」と、口の中だけで呟いた。
港の仮設詰所に戻ると、海霧は薄くなっていた。牧野は研究室の直通番号に電話を入れる。助手の留守番メッセージが終わるのを待たず、要件を置いていく。
「現場で採取した褐藻サンプル、DNA配列。既存データベースとの比較、外来遺伝子挿入の痕跡探索。特に成長制御と細胞外多糖の生合成系――アルギン酸、フコイダン、該当遺伝子群の有無を重点で」
要件を切るテンポは、講義で黒板に式を並べるときのそれに近い。電話を置いた瞬間、もう一本。恩師・岸田教授の番号が、指の記憶で勝手に回った。
呼び出し音が二度鳴って切り替わる。受話器の向こうは静かすぎ、逆に胸騒ぎを呼んだ。
「――もしもし」
「岸田です」
「神浦に来ています。研究所の焼却炉跡から、K-03に関する記述を見つけました。ガゴメ……ガゴメコンブを基にした改変株の可能性が高い。現場の遺体からはそれと同質の藻体が多数……」
教授の側で、長い沈黙が落ちた。時計の秒針の音が、わずかに拾われる。
「……そうか。やはり、その線か」
低く、息を押し殺した声。
「牧野君、その件は深入りしない方がいい。警察には『稀な海藻が流れ着いたのだろう』とだけ伝えなさい」
「教授?」
「学者の仕事は真実を暴くことだが、暴いていい真実と、そうでないものがある。これは命令だ」
命令。師弟のあいだに、滅多に置かれない単語だった。
通話は一方的に切れ、机上に置いた受話器が、妙に重く見えた。
田所が紙コップのコーヒーを差し出す。
「恩師か」
「ええ」
「なら、なおさら聞かないほうがいい時もある」
半分は冗談、半分は本気の口調。牧野は苦笑だけ返した。
再び、廃墟。午後の光は横から差し、割れた窓ガラスの断面が薄く光っている。研究棟の地下に降りると、微かな潮の匂いに混じって、鉄と薬品の残り香が強くなる。非常灯は死んでいるが、階段踊り場の窓から差し込む反射で、最低限の足元は見えた。
培養室の扉は開いている。室内中央、背の低いステンレス槽――連続式の攪拌タンク。配管は外され、口を開いたフランジの縁に黒褐色の薄膜が残る。棚にはビーカー、ピペット、そして手書きのラベルが貼られたポリ瓶。「塩化カルシウム」「硫酸マグネシウム」「トレースメタル」。量は少なく、散逸している。
壁のホワイトボードに、かろうじて読める数式。
I = I₀/(1 + κC)――見覚えのある吸着等温式の変形。隣に走り書きで「低塩環境で付着↑」。海水のイオン強度が低いほど、表面電荷の効果が増し、付着が強くなる。誰かが現場で気づいたメモだ。
「低塩……湧水か」
独り言のような声に、背後の田所が反応する。
「湧水なら山のほうだ。藻塩に使うって、漁師が言ってた」
牧野は頷く。事実が一本の糸になっていく。
――淡水で濡れた皮膚。改変株の付着性。藻塩に使う湧水の導線。
理屈は、情と違って無慈悲に噛み合う。
「この株は設計されている。環境浄化を意図した可能性が高い。重金属イオンに対する親和性を上げ、藻体に抱き込ませ、刈り取る……そんな説明なら、予算は下りる」
「だが実際は、海を塞いだ」
田所の言葉は、海霧の湿り気を帯びていた。
夕刻。港に戻ると、鑑識からの中間報告が届いていた。
「遺体付着藻体の葉状面に、不規則な凹凸。電子顕微鏡で微細突起。付着器は糸状に延び、基質への侵入跡。天然のガゴメより明らかに“攻め”の構造が強い」
牧野は写真をルーペ越しに追う。突起の配列が、金属イオンと結びつくための“場”を作っているのだと、頭のどこかが勝手に説明した。科学者の悪い癖だ。すべてに意味を見つけようとする。
研究室の助手からもメールが入る。
「一次解析(BLAST):在来ガゴメと一致せず。外来挿入配列(成長促進、細胞外多糖増産、金属イオン吸着関連ドメイン)複数。自然界にない構成。詳細追試中」
着信音が止む前に、牧野は画面を閉じた。予感は、確信に近づいている。
しかし、確信は引き金でもある。誰かの過去を撃ち抜く弾丸になり得る。
「身元の件、続報だ」
田所がメモを渡す。
「三上稔、五十二。東京のコンサル会社。十年前までこの研究所の研究員。港近くの民宿に滞在。手帳に町役場の水産担当・柏木、元施設管理人の鵜飼、老漁師の岩田吾郎の名」
三上――プロローグで見た写真の男。
「胃内容物は地魚の煮付け、米、味噌汁、アルコール。血中から睡眠導入剤。肺からは海水に混じって微量の淡水」
既に聞いた要約が、今度は生の座標を伴って戻ってくる。
民宿、役場、管理人、漁師。みんな、海の縁に立っている者たちだ。
「聞き取りを進める。先生は?」
「私は、海の“設計図”を見る」
夜。安宿の机に広げたノートに、牧野は線を引く。
K-03――仮称。
・基礎:ガゴメコンブ系。
・挿入:成長促進、フコイダン増産、金属イオン吸着。
・性質:低塩環境で付着性↑。
・目的:環境浄化(推定)。
・結果:藻場の単一化、在来種の駆逐、産卵場の消失。
・危険:人の身体に対する付着(低塩の皮膚→付着基質化)。
ページの端に、小さく書き添える。
「善意の設計ほど、戻りにくい」
ふと、窓の外が明るい。港の灯りが、海霧を内側から照らしている。
牧野はカーテンを少しだけ開けた。白い靄の向こう、波の反射が、深い緑の影を揺らしているように見えた。見間違いだろうか。いや、海は昼より夜のほうが、真の色を見せるものだ。
再びスマートフォンが震えた。知らない番号。
「……牧野先生ですか?」
低く擦れた男の声。
「港の端で、少し話せませんか。研究所のことを、黙ってはいられなくなった人間がいます」
名を名乗らないまま、通話は切れた。
海霧の向こうで、誰かが立っている。
田所に連絡を入れる指を、一瞬だけ止めて、牧野はコートに手を伸ばした。
海の匂いは、昼間よりも濃かった。
それは、過去がいまに混ざる匂いでもあった。
そして、深き緑の記憶が、こちらを覗いている匂いでもあった。
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