海藻奇譚――深き緑の記憶

Algo Lighter アルゴライター

序章 海霧の港

夜明け前の神浦〈こうのうら〉は、まだ世界と陸の境を確かめかねているようだった。

岬を回り込んだ冷たい潮が、呼吸の抑揚を忘れたみたいに、堤を等間隔で叩く。音は規則的だが、その合間を漂う空気は不規則に重い。鼻腔には塩の匂いに混じって、錆びのかすかな酸味と、どこかで熟れすぎたものが崩れるときの、短い腐臭の影。牧野圭祐は、嗅覚の気紛れに過ぎぬと片づけることができず、ゆっくりと胸の内で言葉を整えた――海そのものが、別の秩序に移りつつある。


仮設詰所の鉄扉は、夜露を吸って膨れた木のように鈍く重かった。中に入ると、白い蛍光灯が明滅し、コンクリートの床は磨耗した靴底に擦られ、乾いた粉の手触りを返してくる。壁に貼られた海図は、青い曲線が何度も塗り重ねられて、浅瀬と深みの境界が濁って見えた。早朝の寒さのせいにしてしまえるなら、どれほど楽だったろう。だが牧野は、寒さより先に、沈黙の気配を聞き取る男だった。


「牧野先生、こちらです」


声は低いが、くぐもらずに耳へ届いた。田所――この町の海よりも日に焼けた男。刑事という肩書きは、彼の胸ポケットに差した小さなメモ帳よりも控えめに見えた。無駄のない歩幅で簡易テーブルへ導かれる。上には透明なビニールで覆われた数枚の写真。被写体は一様に、海から上げられたあとで、海の一部になりかけている。


人間の形は、輪郭からほどけてゆく。顔面を覆う褐色の葉状体、胸郭を抱き締めるような帯、腕に巻きついた紐状の付着器。粘りの光沢は、ただ濡れているだけでは出ない質感だった。偶発的に纏わりついたというより、意志のあるものが選んだ位置に、自分を据えたという印象。写真は無言で、それを主張した。


「死因は溺死。……ただし肺から海水のほかに、微量の淡水が検出されています。胃の内容物は地魚の煮付け、白米、味噌汁、アルコール。血中からは睡眠導入剤。事故と断ずる材料は、揃いすぎている」


田所は列挙したあと、指先で一枚を手繰り寄せ、葉の表面を拡大した写真を示した。そこには、規則を嫌う規則のような凹凸――薄い隆起の群れが、潮の方向を記録する等高線にも似て、密やかに並んでいた。


牧野は黙ってルーペを取り出し、光の角度を変えながら覗き込む。指先の癖で呼吸が浅くなる。視界の縁で海霧が詰所の窓を擦り、擦り音がガラスを曇らせた。


「……ガゴメですね。ガゴメコンブとも呼ばれる。主な群生域は函館近海の限られた海域。伊豆では、まず見ません」


言い終えても、田所は相槌を急がなかった。やがて短くうなずき、帽子の庇に軽く触れた。「やはり先生を呼んで正解だ」


過剰な敬意ではなく、事実に対する礼儀としての言葉だった。牧野は視線を写真から外し、詰所の奥の湯沸かしポットに目をやる。沸点に達する少しまえの湯は、表面に小さな破裂の前兆を浮かべる。海もまた、いま同じ段階にある。立ち上るべき蒸気を堪え、しかし内部では変化が連続している。


「身元は?」

自分にとって重要な情報から取りに行く。研究者としての習癖は、警察と矛盾しない範囲で役に立った。


「三上稔、五十二歳。東京のコンサル会社勤務」田所は、紙の束の上から二枚目を抜き、読み上げる調子で続けた。「――十年前まで、この町の山手にあった海洋資源開発研究所の研究員でもあった」


十年という数字は、音としては軽い。だが意味としては重い。十年は、海面を漂う泡が消えるには長すぎ、人間の罪悪感を黙らせるには短すぎる。牧野の胸の柔らかな場所に、その数字が乾いた音を立てて打ち込まれ、記憶の箱の鍵が、不意に内側から回る気配がした。開けるべきではない箱ほど、中身は鮮やかだ。


牧野は写真に戻り、藻の付着の角度を追った。海面での揺れを想像し、潮汐の時刻と風向とを、知らず心中に並べていく。葉状体は、ただ絡むだけでは、ここまで均一に体表を覆えない。何かが手助けをしたか、藻自体に、環境を選んで粘りを増す機構があるか。菌糸のように水の薄い領域へ伸びる性質――低塩域での付着力の増大。いや、いまは飛ばしすぎだ、と自制が働く。思考は、仮説の快楽に軽々と転ぶ。だが現場は、仮説より遅く、確かなものだけを選ばせる。


「港での発見は?」

田所は壁の時計に視線をはね返しながら答えた。「午前三時二十二分。引き潮の底。防波堤の先で、網の見回り中の漁師が発見。海面に浮いたものを照らしたら、藻の塊だと思ったそうです。引き上げたら――」短い沈黙。「――人だった」


引き潮の底は、海がいちど言葉を引き取る時刻だ。声が少し、遅れて戻る。牧野は写真の、遺体の口元に薄く残る泡沫に目を置く。肺に入った水が泡立つ現象は、条件と時間で変わる。その泡の粒の荒さと、海藻の粘性との関係。比較するべき素材は、現場にある。写真は導入の言葉に過ぎない。


窓辺の海霧が一層濃くなる。港の輪郭が曖昧に解け、詰所だけが海から剥がれた島のように孤立した。牧野は、薄い笑みを内心で否定する。状況は戯曲めいて見えるが、海は戯曲のためにこの濃淡を用意するわけではない。たまたま、人間が物語のほうから踏み込んでいくのだ。


田所が湯を注いだ紙コップを差し出す。コーヒーは妙に薄く、湯の匂いをそのまま手に載せてくる。飲まずに置くと、机の面に淡い輪染みが拡がった。染みは、街の地図でいえば、誰の所有でもない空白地の色に近い。


「先生」田所は声の調子を半分ほど落とし、同じ指で別の写真を示した。「葉の表面に、規則性のない凹凸があります。これが普通なのか、異常なのか」


「普通、ではあります。ただし、ここまで目立つのは群落によりけり」牧野は端的に言ってから、言葉を補う。「成長速度と、海中の陽イオン、微量金属、日照の条件。あるいは……誰かの手が入っていれば、なおのこと」


誰かの手、と言った瞬間、田所の目が、海霧の内側で火を点けたように見えた。刑事の仕事は、誰かの手の温度を集め、配列し、因果の糸をほどくことだ。研究者の仕事は、現象の背後で組み替えられた数式の順序を見つけることだ。出発点は違うが、指先の使い方は似ている。


「三上という男について、あなたは何かご存じですか」


「個人的には」牧野は否定した。「名前を聞いて思い出したのは、十年前、この町の山手に建っていた施設――海洋資源開発研究所の存在だけです」


田所は短く息を吐き、詰所の空気が少しだけ新しく入れ替わる。「二年で突然閉鎖。理由は公表されず。国の補助金は入っていた。町は、あそこを嫌っていました。多くは語られませんが」


語られないことは、語られることよりも、痕跡を残す。沈黙には、沈黙の言い回しがある。目を逸らす角度、話題が変わる速度、そのときの指の所在。牧野は、海の色を読むより先に、人の沈黙を読み始めていた。


扉の向こうで、どこかの漁船のエンジンがかかる音が、眠りの深い者を起こすように低く長く響いた。夜と朝の継ぎ目は、音で縫われる。海霧は、縫い目をわざと見えにくくする。


「先生」田所は、写真をすべて一度裏返し、卓上に白い面だけを並べるという、特別な礼を尽くしてから言った。「あなたを呼んだのは、沿岸の生態系調査の助言ということになっています。……が、実際に欲しいのは、ここに写ったものが、どの程度『偶然』で起こり得るのか、という判断です」


偶然という言葉は、便利であり、乱用されやすい。牧野は、紙コップの輪染みがゆっくりと薄れていくのを見ながら、答えを選ぶ。


「偶然は、起こります。ただし、ある範囲の中で。――写真の藻の付き方は、範囲の端に寄っています。端が自然に生じることは稀ではない。けれど端が複数重なるには、条件が揃うか、手が加わるか、そのどちらかが必要です」


田所はうなずく代わりに、詰所の外を見た。海霧越しに、防波堤の赤い灯がぼんやりと呼吸を繰り返している。灯りの呼吸は、やがて人の呼吸と足並みを揃え、詰所の内部にいる者の考えを、外の波の周期と同調させる。そういう瞬間がある。


「教授には連絡を?」田所の問いは、すでに一歩先を見ていた。


「のちほど」牧野は答える。恩師の顔が脳裏で揺れた。学問の秩序を信じ、しかし秩序が及ばぬ領域では沈黙を選びかねない人の、あの硬い横顔。


写真の一枚を、牧野は表に返した。褐色の森が、ひとつの身体に寄り添う。寄り添うという言葉は、優しさの匂いをまといがちだが、ここでは締め上げるという意味に近い。海は、包み、そして奪う。人がその二つを区別する言葉を磨いているあいだも、海は区別せず往復する。


「十年という時間が、関係しているかもしれません」牧野は静かに言った。「十年は、沿岸で藻場が組成を変えるのに、ぎりぎり足りる時間です。人が過去を忘れるのにも、ぎりぎり足りない」


田所は、机上の白い面を指で軽く叩いた。紙は音を返さない。代わりに、海が返した。低い、間の長い音。


夜明けは、海霧の向こうで待っていた。だが、明るさが訪れることと、見えるようになることは、いつでも一致しない。港のどこかで、誰かが網の具合を確かめ、誰かは船底を蹴って沖へ出る準備をし、誰かは昨夜の嘘と今朝の真実の折り合いを探っている。


牧野は、写真を重ねて戻し、ルーペをポケットにしまった。仮説は、いったん胸の底へ沈める。海底に置いた石のように、潮が引けば輪郭が現れるはずだ。


詰所を出ると、海霧は少し薄くなっていた。防波堤の先に赤い点がまた一つ灯る。息を吸うと、塩の匂いに、やはり錆の酸味と、かすかな腐臭が混ざっている。嗅覚のせいではない。海が、別の秩序へ移動している。


――誰だ、この男は。

問いは、波の合間に置き去りにしたまま、次の波が来るのを待っている。十年前という数字は、寄せては返す水音に紛れ、しかし耳の奥で、確かな拍を数え続けていた。

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