第二章 沈黙の町

港にかかる朝の白い霧は、町の声をいちいち包んでしまうので、郵便受けに落ちる金属の小さな音も、掃き出し窓の戸車が砂を噛むようなこすれも、すべて海の湿り気に吸いこまれて輪郭を失っていた。神浦〈こうのうら〉はそういう町で、潮の粒子と沈黙が、干物の匂いと一緒に軒下に吊り下がっている。外から来た者の口が開けば、その音は霧の向こうで見えない手にやんわりと押し返される。町は、問われることに慣れていないのではなく、答えないというふうに定めてしまったかのようだ。


牧野圭祐は、港の駐車スペースに停めた小さな四輪の隣で、潮にやられたジャケットの袖を軽く払ってから、町の内側に歩を進めた。海を背にすると、道はたちまち狭くなって、選挙の時期にだけ開く町内会館の掲示板、鮮魚店の白い発泡スチロールの山、午前の光を吸った磯臭いゴム長の列、そうしたものが、石段の影と等分に町を構成していた。彼はこの町に若い頃、一度だけ来ていた。十年前だ。あのとき町はすでに寡黙で、ただ寡黙であることの理由も、いまより薄く、目隠しの布のように軽かった。いまは違う、と彼は思う。布は重く、濡れ、結び目は固くなって、ほどくには指の腹が切れる。


研究所までの道順は身体が覚えていた。防波堤の末端を回り込むと、湾を見下ろす丘陵に白い傷のようにコンクリートの塊が残っている。柵は破れ、看板の文字は褪せ、空は無関心に高い。けれど彼はそこへは向かわず、まずは人のいる方へ、町の中心の方へ、足を延ばす。警察に呼ばれた助言の名目は頭の片隅に留めるだけで、彼の視線は、人の手の痕が新しい場所を探していた。沈黙は人のいるところに生まれるからだ。


鮮魚店の軒先で、女店主が黙々とサバの腹を割いている。包丁の刃が骨に触れる音は、潮騒よりも乾いていた。牧野が「研究所のことを少し」と言いかけたとき、女は包丁をまな板から離さないまま、ほんの少しだけ顔を上げた。返事の代わりに、目が細くなって、刃物のように光る。それ以上の会話は続かなかった。古びた理髪店では、回転灯の代わりに網戸が震えている。椅子に腰かけた老人は新聞を広げているが、紙面の文字を読んでいる気配はない。牧野が挨拶をしても、老人は新聞の端を一センチほど上へ持ち上げるだけだった。


沈黙が町の規約だとすれば、破る者はどこかにいる。その者こそが、町の本当の声を代弁する。牧野はそうした人間に何度も救われてきた。港の端、網の匂いが強くなる外れに、黒いキャップを深くかぶった老漁師が座っていた。岩田吾郎。前回、田所刑事の横で名を聞いた人物である。岩田は手元の網の切れた目を補修している。指の節は固く、一つひとつが潮に磨かれた丸石のように見えた。


「研究所のことを、教えていただけませんか」


牧野が真正面から言うと、岩田は糸を歯で切って、唇の端に小さな苦笑を作った。海の匂いと、焚火の名残のような焦げた匂いが彼のジャケットに染みついている。


「研究所のことなんざ話したくねえよ」


「それでも、話してくれる人がいつも一人はいます。どこの町にも」


岩田は網から顔を上げ、牧野の眼を確かめるように、しばらく見た。沈黙の中で、風がロープを擦る微かな音が遠くへ引かれていった。


「怒らせたんだよ、海の神様を」


それが切り出しだった。岩田の声は低く、その低さを海が受け止めるので、言葉はすぐに消えず、ゆっくりと耳に入ってきた。研究所が建ってからというもの、アワビは姿を消し、サザエは数を減らし、藻場は見たこともないヌルのある海藻で埋められ、稚魚の産卵場は死んだ。町には補助金が流れ、帳尻の合う数字が配られたが、漁師の肺は海の中で重たくなり、網は獲れない魚の重さだけを抱えるようになった。


「怒らせたら、謝ればいい」


牧野がそう言うと、岩田は頭を横に振った。


「謝る先が見つからねえ。海のどこに額〈ひたい〉をこすりつけたらいいのか、誰も知らねえ」


告白というほど大仰ではない、町の生活の延長にある言葉。けれどその言葉の端々に、十年間の重みが、潮が乾いた後に残る白い縁のように付いていた。


その日の夕刻、牧野は仮設詰所の小さな机に座り、大学の研究室へ電話を入れた。現場で採取した海藻片の解析を急いでもらっていた件である。回線の向こう側の若い声は息を弾ませながら、しかし専門の言葉を揃えて、報告を読み上げた。サンプル配列は在来のガゴメとは一致せず、複数の外来遺伝子の挿入痕跡が明瞭。成長促進、細胞外多糖(EPS)の増産、重金属イオン吸着に関わるドメイン。自然界の組成では説明できない配列上の継ぎ目がある。アルギン酸やフコイダンといった陰性多糖の陰影が、そこかしこに濃く出ている、と。


いくつかの行が、牧野の指を止めた。重金属吸着。増産。吸着。彼はメモの端に、学生の頃から癖になっている小さな模式図を描いた。負に帯電した鎖に陽イオンが吸い寄せられる図。海水のイオン強度が高い環境では、その電荷の効果が遮蔽される。だから、塩分の薄い水域では付着性が上がる。理屈は単純だが、自然界の海藻がそこまで露骨な性質を示すことは稀だ。設計の匂いがする。彼は受話器を持つ手を肩から少し浮かせた。肩の筋肉が強ばっている。


「環境浄化のための――」


彼が言葉を継ぐと、電話の向こうの助手は小さく息を呑んだ。


「そう読めます。吸着したものを刈り取って除去する設計。ですが、他種へのアレロパシーも強い。藻場全体を塗りつぶす危険があります。倫理審査の記録が見当たりません」


倫理審査。記録。彼は机の上の写真に視線を落とした。海面から引かれた遺体の肌に絡みつく褐色の葉状体。とろみのある光。あれが町の海を塗り替えたものの正体だとすれば、海が怒るという言い回しは、科学の言葉に翻訳不能ではない、と彼は思う。生態系は激変の前触れを、沈黙のかたちで示す。声高に警告しないから、気づいたときにはもう手遅れで、変化は町の生活の隙間に静かに入りこむ。


夜の港は、人の数より影の数の方が多い。漁協の小屋のあたりから、笑い声ともあくびともつかない声が一度だけ上がったが、すぐに消えた。牧野は堤の上に立ち、黒い水面に目を凝らす。海霧は日中より薄いが、灯りの周囲だけが膨張して、距離の感覚が狂う。水面下、褐色の紐のようなものが揺れ、時折まとまって背を見せる。あれが港を満たしている。あの、人工の系譜を持つ海藻が。彼は靴底で堤の端を探り、コンクリートの粉を少しだけ落とす。粉は音もなく水に消える。海は静かだ。静かすぎて、何かがずっと続いているように思わせる。


翌朝、彼はふたたび町を歩く。潮の香りとともに、遠くで低いエンジン音が鳴っている。トラックが研究所の方向に向かっていく。運転席の横顔はよく見えない。町役場の若い職員が掲げた「海の再生計画」のポスターが電柱の陰で風に揺れている。色あせた青と緑。紙面の文字は、意欲と正しさの匂いを重ねているが、町の空気には馴染み切れていない。牧野はポスターの角が起毛しているのに気づく。何度も貼り替えられ、剥がされ、また貼られた紙の角は、布のように柔らかくなっていた。


「海は怒ってるが、機嫌も直す。手順がいんだ」


背後で声がした。振り向くと、岩田が立っている。朝の光の角度は低く、男の影は長い。彼はポケットから折りたたんだ布を取り出し、手の平で丁寧に広げる。海藻を焼いた灰を濾すための布だという。目は粗く、ところどころをデンプン糊で補修してある。糊の乾いた匂いがわずかに立ち上がる。


「藻塩は海を煮詰めただけじゃいけねえ。焼いた灰を使って、山の湧水でゆっくり濾す。晴れ続きと湿りの日とで、灰の量を変える。急ぐと塩は辛くなって、舌が怒る」


岩田の言葉は、生活の数式だ。灰と湧水と塩の比。町の空気の湿度、海霧の濃度、日の高さ。そういうものが何十年もかけてととのえられ、たった一握りの塩に凝縮される。彼は布を畳み直し、再びポケットに戻す。


「研究所のことを話すなら、あの塩の話から始める。けんどよ、誰もそうはしねえ」


牧野は頷いた。研究所では、海を塩に還元する手順が欠けていた。海から成分だけを抜き取り、効率と成果とに投げ入れれば、海は怒る。怒りは誰の顔にも宿らず、町の静けさとして定着し、人の胸に痞える。十年という時間は、怒りを感情から手順に変えて、人の手が届く場所から遠ざけるのに十分だ。


昼頃、解析の追報が届く。港の群落から採った株と、遺体に絡みついていた株の配列には微妙な差がある。後者の一部は古い系統に近似――十年前のラボで使われていた保存株と類似の挙動を示す、と。彼はメモの端にもう一つ印をつける。乾燥、低温、保存。糊で封緘。手順の痕跡が、科学の側にも生活の側にも同じように付くことを、彼は嫌というほど知っている。人が何かを残そうとすれば、残ったものは必ず匂いを持つ。灰の匂い、糊の匂い、電気の匂い、潮の匂い。匂いは沈黙よりも饒舌だ。


午後、彼は一人で丘を上がり、研究所跡の外周を歩いた。焼却炉跡の灰は、雨を吸って重く沈み、足跡をため込み、やがてそれも崩れて匿名の土に混ざる。扉の外れた倉庫の片隅に、見慣れない延長コードが這っている。コードの新しさは周囲の風景からわずかに浮き、最近ここに手が入ったことを示す。彼はしゃがみ込み、コードの表面に付いた微細な砂を指で払った。砂は海からのものではない。ざらつきが違う。小さな切りくずの匂いがした。工作。修繕。誰かがここを生かそうとしたか、死んだまま維持しようとした。


風が灰を持ち上げ、彼の頬をかすめる。灰の味がした。口を閉じて、彼は立ち上がる。まぶたの裏に、午前の港の水面がよみがえる。褐色のものが揺れていた。人工の配列が、潮の律動に意志のような形を与える。人間は、意志に似た動きを観測して、そこに意志の責任をなすりつけるのが得意だ。それでも、責任の所在はいつも人にある。海は、怒ることはあっても、告発しない。沈黙は、町の倫理が海から借りた形式である。


夕暮れ、港の外灯が順にともる。オレンジ色の光の輪が、海面にゆっくり落ちる。釣り人が糸を巻き上げ、空き缶を足で軽く転がして帰っていく。彼は最後にもう一度、岩田の方を見た。岩田は網を片付け、紐を結び、結び目の余白を歯でちぎった。彼は誰にも手伝わせず、その手順を終えた。


「町は黙っているけれど、黙っているのは、忘れているからじゃないですよね」


牧野がそう言うと、岩田は立ち止まり、ゆっくり頷いた。


「忘れたふりをしてるだけだ。忘れようとするのが、人の生きるやり方だからな。忘れねえ海の真似は、俺たちにはできねえ」


彼らは別々の方角に歩いていった。濡れたコンクリートは、わずかに藻の青緑を帯び、靴底の跡を薄く受け取っては、すぐに消す。海霧がふたたび降りてきて、夜のはじめの冷たさを町に置いていった。彼は上衣の襟を立て、胸のうちでいくつかの言葉を並べ直した。解析結果の用語、岩田の生活の言い回し、港で匂った糊と灰と潮の混ざった記憶。どれも意味を持っている。けれど、意味は声を上げない。町はそれを、ただ持ち運んでいるだけだ。


神浦の夜は深くはならない。遠くに都会の灯りがあるわけではないのに、夜はすぐ底に届かない。暗さは濁って、やや明るい。そういう夜の中で、牧野はゆっくり歩き、足の裏で町の起伏を読む。明日、彼はまた別の場所に立って、同じ海を見るだろう。海は黙っている。だが、その沈黙は、つねに何かを見せている。見える者にしか見えない、浅い裂け目のようなもの。そこから、十年前に沈められた言葉のかけらが、時折、泡のように浮かび上がる。その泡は、指で触れる前に壊れてしまう。けれど、壊れたことで、そこに何かがあったと、はっきりわかる。


町は翌朝も、何事もなかったように始まるだろう。潮が満ち、引く。漁師は船を出し、網を投げ、戻り、塩を焼き、湧水を濾す。研究所の廃墟は同じ角度で風を受け、延長コードはその場にある。警察は書類をまとめ、彼はまた電話を受ける。配列の差異について、追報があるはずだ。十年前の手つきが、いまも生きていることを示す小さな証拠。それらは事件の骨組を太くし、同時に町の沈黙にひびを入れる。ひびは目では見えない。だが、指で撫でればわかる。あらゆるものが、変わらないふりをして、少しずつ変わっていく。


その夜、彼は短く眠り、夢の中で塩の結晶を見た。四角い、透明な粒が、暗い水の中で、わずかに光を返す。結晶の中心には、小さな気泡が閉じ込められている。誰かの息だ。十年前に吐き出され、固まって、いまも動かない息。彼はそこに指を伸ばすが、結晶は軽く回転して、指先から逃げた。目を覚ますと、窓の外には海霧が張りつき、世界はすこし縮んで見えた。


神浦の朝はまた来て、町はまた黙っていた。けれど、黙り方がほんの少しだけ違っているように彼には感じられた。人が一言多く漏らすときの、言葉にならない前ぶれの気配。港の片隅で、子どもがバケツに褐色の海藻を入れて揺らしていた。子どもは笑って、そのぬめりを「気持ちわるい」と言い、すぐに「でも、きれい」とも言った。二つの感想は矛盾せず、同じ口から順番に出た。大人の沈黙の中に、その程度の自由が混ざるとき、町はすこし呼吸が楽になる。牧野はそう思い、胸の底でその呼吸に合わせて、静かに息を吐いた。


海は相変わらず、何も言わない。だが、何も言わないことに、意味がないわけではない。沈黙は記憶の器であり、町はそれを持って立っている。器の底には、灰と塩と湧水の数字が沈んでいる。研究所の配列、漁師の手順、役場のポスター、延長コード、糊、網、霧。どれもそこにある。あるということだけが、いまのところの真実で、だから彼はそれを見て、名を与え、紙に書きつける。名を与えることで、沈黙はすこし形を持ち、形を持つことで、はじめて人は、何かに手を伸ばせる。


その手つきが正しいかどうかは、いつだって、あとからしかわからない。けれど、手を動かさずにいることの代償も、十年の間に、この町が十分に学んだはずだった。

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