ゲッコーのタトゥー

夔之宮 師走

ゲッコーのタトゥー

 気が付けば池袋の片隅で数十年にわたってだらだらと続いている俺の会社員生活において、大きな変化があったと言えば、古くはリーマンショックだったり、東日本大震災だったりするのだが、直近では新型コロナの蔓延だろう。


 一変した生活様式はなかなか元に戻るものではない。そもそも、誰しもが心のどこかで飲み会だとか出張だとか出社して働くことだとかに疑問を持っていたのだ。そうでなくては、あんなに簡単に働き方や生活が変わらないだろうというのが俺の考えである。

 

 結局、皆辞める機会を待っていただけなのだ。自ら何かを決めたり行動したりといったことは苦手でも、号令がかかれば右を向いたり左を向いたりが得意な奴が多い。


 その上、最近は何をするにしても金がかかる。俺は昔からラーメンが好きだが、流石に千円、二千円となると食べようという気も失せる。

 原材料費や手間がかかっていることなどを考えれば、金額の高さを否定する気にはならない。最低賃金が上がれば、人件費は自然と上がる。人が足りなければ採用の為に賃金を上げる。それはわかる。

 だが、とんかつ定食とラーメン一杯が同額だと言われると、俺は腑に落ちない。ラーメンにいろいろトッピングして高い注文をしているのは俺だ。それはわかっている。チャーシューや卵、葱や海苔にいろいろ手間がかかっているのもわかるし、調達の大変さやこだわりなどの影響もわかる。だが、とんかつと同じだと言われると、俺は思わず首を傾げてしまうのだ。

 貧すれば鈍する。俺の理解が遅いのは金がないからかもしれない。


 とはいえ、経済が動こうが、天災が起きようが、パンデミックが起きようが変わらないものもある。


 社長が池袋からは移転をしないと言っていたのを真に受け、俺は東池袋や北池袋、雑司が谷や要町や椎名町などを転々としながら生活している。

 俺は電車に乗りたくないのだ。それだけを理由に住む部屋を選んでいる。今の部屋に住み始めてからは二回ほど不動産屋に行ってハンコを押した記憶があるので、それなりに生活が長くなってきたはずだ。


 部屋から会社に向かう途中に五差路がある。そこには自動販売機があり、俺はそこで毎朝缶コーヒーを飲む。俺にとって出社前の儀式のようなものだ。たまに買う物が変わるが、そこで一息つく。春でも夏でも秋でも冬でも同じだ。天気が変わっても、景気が変わっても、海を隔てた外国で戦争が起きているニュースを目にしても、同じ日本のどこかで起きている天災を知っても、同じ池袋で起きてる事件を見ても、俺の朝は変わらない。


 一方、夜は違う。なかなか毎日同じとはいかない。仕事によって、人付き合いによって、まぁ、様々だ。

 だが、家に帰るためにはおおよそ五差路を通る。


 その日、俺は会社の連中と軽く飲み、小腹が空いたのでラーメン屋に寄ろうかと思ったが値段を見て素面に戻り、コンビニで冷凍食品を買って帰るところだった。


 俺が毎日缶コーヒーを飲む自動販売機の前に女が立っている。


 実にスタイルの良い女だった。身体の線が丸見えになるタイトな白のトップスは、大きな胸を際立たせており、腰回りが丸出しになるくらいには丈が短い。やや大きめのデニムは、かえって身体の細さが強調されていた。

 女が自動販売機のボタンを押す。がこん。金髪のショートカットが揺れる。取り出し口に手を伸ばしたことで、腰が露わになる。そこにはヤモリの刺青があった。

 俺は栃木の田舎の生まれなので、家にコウモリが出たりヤモリが出たりは常のことだった。ヤモリが天井近くや窓に張り付いているのを何度も見ているので、シルエット、特に足の形に見覚えがある。トカゲでない。ヤモリだ。


 俺は見ず知らずの女性の身体をまじまじと見ていたことを急に恥ずかしいと感じた。会社でハラスメント研修を受けたり、ニュースなども見ている。視線を外して部屋に向かった。顔が見えなかったのはちょっと残念だったけれど。


 翌日から仕事が立て込み、そんなことがあったことはすっかり忘れていたが、ようやく定時で帰宅することができた日、自動販売機の前でその女を見かけた。

 初めて見かけた時と同じく、腰回りが見える装い。顔は見えないが、ショートカットの金髪。細い中にも密度が感じられる腰に描かれたヤモリ。

 俺はヤモリの刺青が上向きだったか、あるいは下向きだったかを思い出そうとしたが、何も思い出せない。抱きしめたくなるような後ろ姿に未練を残しながら部屋に向かう。声を掛けられるほどの意気地はない。

 だが、無性に気になった。俺はその夜、金髪のショートカットでエロ動画を探し、どうにもならない欲望を吐き出して寝た。


 その女は、その後も俺が忘れた頃を見計らったように自動販売機の前にいた。朝に会ったことはない。常に夜。時間はまちまちだ。


 俺はいつしか、その女に会うことを期待しながら会社を出るようになった。未だに顔を見たことはない。俺の印象に残っているのは、その胸、腰、そしてヤモリの刺青。


 その日、自動販売機の前に女がいた。俺は嬉しさを噛みしめながら腰に目を向ける。あるべきところにヤモリの刺青がない。


 思わず歩を止めた。女の腰に見入ってしまう。すると、ちょうどボトムスのウエストの部分からゆっくりと女の肌を這い上がるものがある。


 目だ。


 タトゥーが動くわけはない。女は自動販売機を向いたまま不動である。視界に入る風景の中で、女の腰をじわじわと上ってくる目だけが知覚される。動いている。

 周辺が急に暗くなっていく。先ほどまではまだ夕暮れくらいの様子だった。はずだ。

 何も動きのない道。いつもは何人かとすれ違う五差路は無人。


 目がこちらを見る。視線が絡んだ。

 目だけなのに、それが笑っているのがわかった。


 女がこちらを向く。その顔は見えない。

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ゲッコーのタトゥー 夔之宮 師走 @ki_no_miya

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