知覚される夜

惠月 柊

知覚される夜


 黒の絵の具で塗りつぶされたような夜空と一日の終わりは、一つの擬似的な球体が大人気なく、私の帰り道を照らしていた。今日も早く終わってほしい。そう思えば時は早く流れるものだ。私にとってのいつもは何事もなく、終わった。



 そうすると何が残るか?そう、疲れである。



 疲れた。これだけだ。他に何も無い。



 早く帰って寝ないと明日の仕事に支障が出る、とすでに明日のことを考えている自分に少し腹を立てながらも、唯一この地に足を着いて私を照らしてくれる家へと足を運んで行った。



 おっと語弊があった。近所のコンビニも照らしてくれるさ。まあ私が行くんだけれども。



 と、くだらない戯言を言いながら手元のビニール袋にビール缶を吊り下げ、家の扉を開ける。



 生きるための必要条件を増やしたまま、ひたすら目先の快楽へ快楽へ、一日の疲れを洗い流すように冷たいビールを、喉越しが辺りに響くほど、勢いよく飲み干した。



 気づけば時計は深夜を指す。そして目先の快楽が終わり、明日への負担を少しでも減らすために、疲れを吸い取るベッドへと身を沈めた。



 ん…?なんだこの感覚は?いつもと何かが違う。いや、体はいつも通り、怠いという感情が支配している。眠気もある、でも何かが違う。そして気づいた。



 本来なら見ないであろう天井、そこにはただの木でできた天井でしかないのだが、その木目が顔に見えるのだ。



 …いや、だからどうしたというのだ。今まで一度も気にしていなかった天井の木目如きが、私の明日のコンディションに影響を与えるのか。くだらない。とっとと寝よう。と、言い訳を頭で呟きながら目を閉じた。



 ん…?まだ消えない。その感覚は横にスライドしている気がした。



 私の好奇心が、得体の知れない恐怖を上回り、その目を開けた。



 そこにあったのはただの壁、木でできた何一つ変わることのない壁である。顔もない。今日はどうしたというのだ。違和感なんてない。感覚や予感が、今見ている事実を超えることはない。



 そうして体を正面に向けようとした時だった。



 あの顔の視線だ。視線は木目から生み出された顔のようなものの視線だとわかった。



 私はそれに恐怖し、慄く。私はこの木目を恐れておるのだ。何故かは知らない。まだ酒が回っているのかもしれない。むしろここまで冷静に考えているなら、もう覚めているはずだ。



 その無機物な恐れは、私の喉奥から臓器をどんどん抉り出すように蝕んだ。



 そして私はその夜の記憶がこびりついたまま朝目が覚めた。



 昨夜の恐怖か酒の酔いのどちらかわからない気持ち悪さと額に光る汗とは裏腹に、その後の生活には何の変化もなく、いつものように寝て、いつものように出勤し、いつものように電車に乗った。



 皮肉にも私は安堵する。私のいつもが帰ってきたのだ。こんなにいつもに安心したのは初めてである。



 なんとまあ、あの時の奇妙な感覚が嘘のようだ。いや、嘘だったのではないか?そう、夢だったのだ。第一木目が私を見ている?B級映画にも程がある。



 そうしてあの木目の記憶が薄れるほど、私にとってのいつもが身に染みた頃、もうこの頃には、すでに遅かったのかもしれない。



 朝の光はいつもより柔らかく、窓越しの景色は平穏そのものだった。



 なのに、私の部屋の天井は――確かにいつか、あの日に見たあの木目の顔が、微かに動いているように見えたのだ。



 目を凝らしても、形は木目のまま。しかし存在感だけが確かにそこにあった。



 あの日の恐怖が私を包む。不幸にもその恐怖は、一度夢だと思ったことでさらに加速していた。




 「気のせいだ」と自分に言い聞かせ、仕事へ向かう。街の喧騒、通勤電車、見慣れたコンビニの灯り。全てが平穏で、何も変わってはいない。




 しかし、ふとした瞬間、背後の空気がわずかに歪む感覚。振り返ると何もない。ただの壁。ただの天井。ただの世界。




 だが、私が生活していたはずの「いつも」は、すでにそこには無いと、薄々感じ始めていた。

 




 そしてまた帰宅して、ベッドに沈み込む。





 あの日のようにビールを飲み干し、疲れを吸い取るべきベッド。しかし天井を見る勇気は自然と湧かない。顔の気配は消えていない。微かに、そこにいる。





 そして、奇妙な確信が私を貫いた――そうか。これは「私が見るもの」ではなく、「私に見られるもの」なのだ、と。





 木目は何も語らない。ただ、そこにある。視線は確かに、私を追っている。





 目を閉じても、眠りについた瞬間に浮かぶのは、あの視線を巡らす木目の輪郭。






 恐怖ではない。なぜだろう、むしろ妙に落ち着く。






 なぜなら、この謎は明日も、明後日も、ずっと変わらずそこにあるとわかるからだ。







 そしてその顔はあの頃からずっと私の頭に生きている。あの顔を見ることはもう無いだろう。







 なぜなら、すでに私の頭にはあの顔が消えてないように、奥の奥まで入り込んでいるからだ。








 そしていつか、私が思う「いつも」は誰かのいつもに変えられてしまった。










 奇妙ではあるが、どこかスッキリする感覚。世界は変わらない。

 













 しかし、私は確かに、この顔の視線を持つ天井が共にいきているーーーという、不可解な安心感。


 











 …さて、明日の夜も、あの顔は見せてくれるのだろうか。それとも…?






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