第2話 令和日本で
「心を壊して仕事を辞め、北尾張の山中に引きこもる生活は、良くも悪くも単調だった。都会の刺激的な日々が嘘のように、ここでは時間がゆっくりと流れている。だが、スローライフというお洒落な言葉とは程遠い、ただの無為な日々だ。」
「このままじゃ、本当にダメ人間になるな……」
俺は一念発起し、農業を始めることにした。
心を癒すには、土に触れるのが一番だと、どこかのウェブサイトに書いてあった。
しかし現実は厳しい。
婆さんが持っていたという畑は、もはや森の一部と化していた。
雑草どころか、人の背丈ほどの木々が好き放題に生い茂っている。
庭にあったはずの小さな家庭菜園も、どこからが畑でどこからが庭なのか、境界線すら分からない有様だ。
「これは……無理ゲーだろ」
途方に暮れた俺は、ここで諦めてはまたネットの世界に沈むだけの生活に戻ってしまう。
そこで俺は、まず相続した財産を確認することにした。
幸いなことに、婆さんは地元の農協にいくらかの預金を残してくれていた。
意を決して、麓にある農協を訪れることにした。
悪路と言ってもいいのかというくらいのほとんどブッシュの中を1時間かけて麓の町まで下りる。
大都市名古屋に近いこともあり、町はそれなりに栄えていて、何でも揃いそうだ。
その一角にある、こぢんまりとした農協の建物に入る。
「ご用件は、いかがなさいますか?」
窓口で声をかけてきた女性を見て、俺は息をのんだ。
少し日に焼けた健康的な肌に、優しげな目元。見覚えのある顔だった。
「あ……もしかして、嶺くん?」
向こうも俺に気づいたようだ。
彼女は、大峰茜(おおみね あかね)さん。
俺が小学生の頃、近所に住んでいた一つ年上のお姉さんだ。
「茜さん……お久しぶりです」
「ほんと、久しぶり!どうしたの、こんなところで。都会に行ったって聞いてたけど」
茜さんは、昔と変わらない人懐っこい笑顔で俺を迎えてくれた。
俺は、会社を辞めて婆さんの家に引っ越してきたことを、少し言葉を濁しながら話した。
「そうだったんだ。大変だったね……」
茜さんは、深くは追及せず、ただ優しく相槌を打ってくれた。
その気遣いが、ささくれだった心にじんわりと染みた。
俺は、農業を始めたいが畑が荒れ放題で困っていることを相談した。
すると茜さんは、「待ってました」とばかりに色々と教えてくれた。
農協の組合員になれば、トラクターなどの農機具を格安でレンタルできるらしい。
俺はすぐに組合員になる手続きをした。
その日から、俺の日常に「道と畑の整備」というタスクが加わった。
レンタルした小型のトラクターを運転し、まずは婆さんの屋敷まで車が安全に通れるように、道に生い茂る草木を刈り取っていく。
ガソリンの匂いと、刈草の匂い。
エンジンの振動。
何かに没頭することで、余計なことを考えずに済んだ。
少しずつだが、心が癒されていくのを感じた。
『道の整備』は、まるでアドベンチャー映画の冒頭シーンのようなものだった。
トラクターのエンジン音が山中に響き渡り、「この場所に住んでる人って……本当にいるのか?」と自問するほどだった。
だが、何よりも驚くのは、俺の「修験僧ごっこ」セット。
それもまた、ネットで購入した「修行のための装備キット」が、なぜかトラクターのハンドルにぶら下がっていたことだった。
「これ、本当に必要だったのか?」
と自問しながらも、その格好はやめられなかった。
だって、これからの人生が「修験僧ごっこ」ではあるまいし、という気持ちもあり……。
道の整備と並行して、俺の「修験僧ごっこ」も続いていた。
何しろ、形から入るのが俺の信条だ。
道が整備できるまでは、ネット通販の商品は麓のコンビニ留めにしなければならない。
その受け取りが、麓に下りる良い口実にもなっていた。
修験僧のなりきりセットが届いた日も、俺は二時間かけて歩いて山を下り、例のコンビニに向かった。
「こんにちはー。荷物、届いてますか?」
店番をしていたのは、高校生くらいの、まだあどけなさが残る女の子だった。
名札には「澄田」と書かれている。
「はい、平田さんですね。こちらになります」
澄田幸代(すみだ さちよ)さんと名乗った彼女は、店の奥から巨大な段ボールを抱えてきた。
その中身が「修験者なりきりセット」であることを、彼女はもちろん知らない。 怪訝そうな顔をしながらも、にこやかに商品を渡してくれた。
「ありがとうございます。またお願いします」
「はい。商品が届いたら、お電話しますね。番号、登録しておきますから」
彼女の屈託のない笑顔と優しさが、少しだけくすぐったかった。
翌日から、俺は修験者の格好で、庭周りの整備を始めた。
トラクターで大まかに雑草を刈り、残りを手作業で片付けていく。
飽きたら、裏山を歩き回る。
幸い、婆さんの遺産と俺の退職金、そして二ヶ月後から支給される失業保険で、当面の生活には困らない。
生前、婆さんが「この辺りにも、昔は十軒くらいの家があって、秋には祠でお祭りもしたもんじゃ」と話していたのを思い出す。
だが、今、その痕跡を見つけることはできない。
ただ、人の手を離れたブッシュが広がるばかりだ。
数日おきに麓へ下り、食料品を買い込む。そのついでに、農機具のレンタルの更新や現金の引き出しで農協に寄るのが習慣になった。
「嶺くん、頑張ってるね。顔色、少し良くなったんじゃない?」
窓口の茜さんと、そんな世間話をするのが、ささやかな楽しみになっていた。
最初は、麓に下りるたびに普段着に着替えていた。
だが、それも次第に面倒になってきた。
ついに俺は、修験僧の格好のまま、農協に顔を出すようになってしまった。
「……嶺くん、その格好は?」
茜さんは、目を丸くして驚いていた。
俺はしどろもどろになりながら、「精神修行の一環で……」などと、自分でも意味の分からない説明をした。
それが度々になると、俺のことはこの辺りでは「山奥に住み着いた、ちょっと変わった兄ちゃん」として認識されるようになったらしい。
「お兄さん、なんか新しいコスプレですか?」
コンビニで幸代さんに悪気なく言われた時は、さすがに少しショックを受けた。 だが、考えてみれば、俺がやっていることは修行などとは到底言えない、ただの散歩と自己満足だ。
コスプレイヤーと言われても、あながち間違いではないのかもしれない。
夜は、相変わらずネットで時間をつぶす。
昼間は土と緑に触れ、夜はデジタル情報に溺れる。
そんなアンバランスな生活が、半月ばかり続いた。
世界から切り離されたようでいて、二人の女性とのささやかな交流が、俺をかろうじて社会に繋ぎとめていた。
だが、それもまた問題があった。
ある日、俺はコンビニで買い物を終えた帰り道、トラクターのエンジン音をバックグラウンドにしながら、自慢げに「山奥の暮らしは、本当に心が癒されるんだよね」と話していると、隣の客が不思議そうな顔をしてきた。
「すみません、ちょっと聞いていいですか?」
「え? はい、もちろんです……」
その男は、地元の農業関係者らしい。
彼は、「山奥に住んでる人がいて、トラクターで畑を耕している」と聞いていたが、どうして俺がこんな格好をしているのか不思議そうだった。
「これ、修行の一環ですね……」
俺は、またしても意味の分からない説明をした。
すると、男は、「修験僧ですか?」と尋ねてきた。
その言葉に、俺はため息をつきながら、「いや、ただのコスプレイヤーです」と答えてしまった。
その出来事以来、俺は「山奥の変人」の称号を得ることになった。
だが、その称号がどんな評価なのかは、まだ分からない。
唯一分かっているのは、この生活の中で、自分の心が少しずつ落ち着きを取り戻していることだ。
今では、農協の茜さんやコンビニの幸代さんと会うたびに、「変人」の称号を自覚しながらも、少しくらいは心が軽くなっている気がする。
山奥で暮らす「変な男」が、自分だけの道を見つけ始めていたのだ。
……そんなある日、俺はトラクターで畑を耕していた時のことである。
山中の木々が風に揺れ、太陽の光が畑の中に降り注いでいた。
その中で、俺は突然のことを思いついた。
「もしも、これで本当に心が癒されてるなら……」
「それじゃあ、この生活を続けるしかないな」
そして、その考えに導かれるように、俺はトラクターのハンドルを握りしめた。
その日から、俺の日常はさらに変わり始めた。だが、それはまた別の話である。
ここでは、山奥の暮らしと、「変人」としての自覚が、俺にとってどう影響を与えてきたのか、少しずつ語っていきたいと思う。
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