行き来自由の戦国時代

のらしろ

第一章 引きこもりから、冒険へ

第1話 第一話 山中に引っ込むまで

 

 アスファルトの照り返しが、逃げ水のように陽炎を揺らしていた。都会の喧騒は、まるで巨大な生き物の不規則な呼吸音のように、絶え間なく鼓膜を震わせる。

 その雑多な音と匂いに、俺は胸の奥がざわざわと逆立つのを覚えた。


 俺――平田嶺(ひらた れい)、二十五歳。

 つい最近まで、都内の小さな電子機器メーカーで修理担当として働いていた。

 といっても、それは過去形。

 今では晴れて(?)無職の身である。退職届を叩きつけたあの日から、世界はどこか白黒に色あせ、音は遠くのラジオのように意味をなさなくなった。


 原因は単純明快、会社の腐敗と人間関係の泥沼だ。

 直属の係長は、修理担当の俺に毎日のように無茶振りを浴びせかけ、彼の機嫌ひとつで仕事量は二倍に膨れ上がる。

 些細なミスは全体会議で吊るし上げられ、俺の名前が出るたびに会議室にイヤな空気が流れるのが恒例行事だった。


 だが、それはまだ「小手調べ」に過ぎなかった。

 最悪だったのは課長だ。

 長年にわたり顧客への過剰請求と部品の横流しをしていたことが発覚したとき、その責任を押し付けるスケープゴートに選ばれたのが、よりによって俺だった。


「平田くん、君がやったことにしてくれないか。もちろん、悪いようにはしない。示談金も会社で持つし、ほとぼりが冷めたら、別部署で……」


 笑顔を貼り付けた課長の声に、俺の心の最後の砦は粉々に崩れ落ちた。

 冗談じゃない。俺は、必死に自分を守るため、持てる知識と記録を総動員した。

 顧客とのやり取りの録音、部品の発注履歴、修理報告書の矛盾点。証拠を積み上げ、どうにか自分の無実を証明した。


 だが、勝利の代償はあまりに大きかった。不正は暴かれたが、会社の体質は一向に変わらない。

 俺は「正義の告発者」などではなく、「和を乱す裏切り者」として扱われるようになったのだ。


 職場の空気は氷点下。

 昼休みに席を外せば、戻った時には俺の机にだけ菓子パンの袋ゴミが置いてある。地味に効いた。


 唯一の心の支えは、新入社員の彼女の存在だった。

 笑うと花が開くように周囲を明るくする、あの子の笑顔だけが、俺を人間らしい気分に戻してくれていた。……が、それすらも壊された。


 例の先輩――俺を目の敵にしていた人間が、彼女の不安につけ込み、こう囁いたのだ。


「嶺のせいで、みんな迷惑してるんだよ。お前も大変だな」


 その日のうちに、彼女はホテルへと「お持ち帰り」された。

 真相を知ったのは後日の飲み会。

 酔った同僚が「いやー、あれは武勇伝だよな!」と自慢げに語るのを聞かされた時だった。


 ぷつり――心の中で何かが切れる音がした。

 翌日、俺は無言で退職届を提出した。

 引き止める声は、一切なかった。

 むしろ「やっと出て行ったか」と言わんばかりの空気に満ちていた。


 都会のアパートを引き払い、俺が向かった先は、数年前に亡くなった婆さんの家だった。

 親戚同士で相続を押し付け合った末、結局「いらないからお前が持て」と言われて残された、山奥の古い家と土地。


 便利さとは無縁だが、俺にとっては好都合だった。

 誰にも会いたくない。誰の声も聞きたくない。

 ただ静かに、心を無にして過ごしたかったのだ。


 その家は、尾張北部・犬山市のさらに山奥。明治村の観光地エリアをさらに抜けた先にある。

 かつては小さな集落があったらしいが、今では面影すらない。

 舗装路は麓で途切れ、そこからは草と土に侵食された狭い道が続いていた。

 俺の借りた中古の軽バンは、何度もタイヤがぬかるみに取られ、乗り捨てようかと本気で悩んだほどだ。

 しかも、それも婆さんの家の手前数キロ地点までの話で、そこからは獣道??道なき通を草をかき分けて、たどり着くロケーション。


 ようやくたどり着いた婆さんの家は、外観こそボロいが、雨漏りはなかった。

 電気は辛うじて通っている。

 水道はなく、井戸水をポンプで汲み上げる仕組みだ。

 驚いたのは、空からの電波だけは微妙に拾えることだった。


 俺は元修理工。

 こういうことには妙にこだわりがある。

 屋根に上って自作のブースターを取り付け、アンテナを最適化。

 結果、ネットだけは快適に繋がるようになった。

 文明との唯一の命綱だ。


 ただし問題は物流だった。

 通販で注文しても、山奥まで配達してくれる業者はいない。

 麓の寂れた商店がコンビニのように留め置きをやってくれており、そこで受け取るのが唯一の手段。


 都会なら数時間で届く荷物が、ここでは「配達日=麓に下山の日」になる。

 こうして山暮らしが始まった。

 朝は鳥の声で起き、昼はネットをだらだら見て、夜は虫の声を聞きながらまたネットに沈む。

 社会との接点は薄れ、精神は回復どころか緩やかに腐敗していく感覚があった。


 そんなある日、ネットで修験僧の特集動画を偶然目にした。

 険しい山を白装束で歩き、滝に打たれ、断崖絶壁に立つ姿。

 その姿は、都会のコンクリートに擦り切れた俺にとって、まぶしすぎるものに見えた。


「これだ……!」


 何が「これだ」なのかは自分でも分からない。

 ただ、強烈な衝動に駆られた。

 俺は昔から「形から入る」タイプだ。


 すぐにネット通販で修験僧なりきりセットを注文した。

 麻衣、頭巾、手甲、脚絆、法螺貝、さらには錫杖までセットでついてくる豪華仕様だ。

 数日後、巨大な段ボールを麓の商店から運び出す俺を見て、店の婆さんが「コスプレイベントでもあるのかね?」と笑っていたが、気にしない。


 家に帰って早速着替えた。

 鏡に映る自分は、完全にコスプレイヤー。

 だが気分は高揚し、勢いそのまま山に分け入った。


 ――三十分後。


「痛っ……足が……!」


 草鞋は慣れないうちに鼻緒が擦れ、皮膚がめくれた。

 足袋を履いていたが無駄だった。

 俺はすごすごと帰宅し、再びネット検索。

 すると「地下足袋シューズ」なる鳶職人御用達アイテムを発見し、即注文。

 これで戦闘力は一気に倍増だ。


 以降、俺の山探索ライフは快適になった。

 気分はすっかり山伏。もちろん修行などではなく、気の向くままの散策。

 疲れたら木陰で休む。

 まるでスローライフ系アニメの主人公になったような気分だった。


 そんな生活を続けて一か月ほど経ったある日、いつもとは違う尾根筋を歩いていると、朽ち果てた小さなお堂を見つけた。

 屋根は崩れ、柱は傾き、もはや人が近寄れる状態ではない。


 その周囲を探索していた時、足元で「ぬるっ」とした感触があった。

 苔に覆われた石の塊。抱え上げてみると、ラグビーボールほどの大きさで、ずっしりと重い。

 なぜか心を惹かれた俺は、それを家まで持ち帰った。


 庭先で苔を洗い落とすと、下から現れたのは柔和な笑みを浮かべた小さな石像だった。

 お地蔵さんをさらにデフォルメしたような、愛嬌ある顔立ち。


「……祠に祀られてたのかな」


 朽ちたお堂に戻すべきかとも考えたが、あんな場所に放置するのは気が引けた。

 そこで、婆さんの家の仏間に運び込み、神棚の隣に座布団を敷いて安置した。


「神仏習合って言うし、まあ、いいか」


 軽い気持ちで、毎日神棚と一緒に酒をお供えするようになった。

 それが俺の日課となり、そして奇妙で穏やかな新しい日常の始まりになった――。



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