第3話 数字の罠

【午前】


 八月二十七日、午前八時三十分。政策課執務室のエアコンが効きすぎていて、私は膝にカーディガンを巻きつけながらデスクに向かっていた。コーヒー片手に「スマホ使用実態調査報告書」のデータを読み込むうち、手が震えてカップを傾け——茶色い染みが「82%の家庭でルール遵守」と書かれたページに広がる。


「佐久間課長、数字は出揃っていますか?」


 村井係長が書類を抱えて立っている。私は頷き、画面のExcelグラフを指差した。


「一週間の定点観察で、生徒平均使用時間は百八十七分。条例目標の百二十分まであとわずかだ」


 だが、声の裏で昨夜の光景がフラッシュバックする。息子の部屋から漏れるゲームBGM。私はデータを盾に「寝る時間だ」と言いながら、実は彼が隠し持つ予備機の存在を知っていた。


 市長からのメールが届く。


「全国モデルケースとして成果を出せ。数字で語れ」


 圧力が胸に重しをかける。私は染みのついた報告書を閉じ、新しいプリントアウトと交換した。


【午後】


 市立第三中学校。校庭のアスファルトが夏の陽射しで溶け、独特の焦げた匂いを立ち上らせている。廊下に貼られた「2時間制限宣言ポスター」は端が剥がれ、生徒の手形らしき汚れがついていた。


「休み時間になると、全員がトイレでスマホをチェックします」


 若い教諭がため息混じりに語る。私はメモを取りながら、視線を廊下の表彰額に逃す——「鉢花取引日本一」。市長の出身校ということで、昨日の朝刊写真にも映っていた。


 職員室で村井係長と啓発ツールの最終打ち合わせ。


「『自主遵守チェックシート』は親子で記入式にします。週末、家族会議を促す効果も期待できます」


 私の説明に、村井は眉を寄せる。


「理想論を押しつけるだけじゃ、現場は疲弊します。生徒の自傷行為が増えていると聞きました」


 私は「データは嘘をつかない」と言い放ちながら、引き出しにしまったままの「息子ゲーム課金明細」をそっと触った。紙の端が、汗で湿っている。


【夕方】


 PTA連合会会議室。扇風機が唸りを上げ、母親たちの熱気が空気をねじ曲げる。木下玲子さんが写真を突きつけてきた——手首に絆創創膏を貼った生徒の腕。


「スマホを没収されて、子供がリストカットしました。罰則がないなら意味がない!」


 私はExcelシートを投影し、声を張る。


「御心配は承知しています。しかし数字が示すように、大多数の家庭で効果が——」


「数字なんか聞きたくない!」


 割れるような声が飛び、私の言葉は途中で凍った。誰かが涙ぐみ、誰かが携帯を握りしめる。私は突然、自分の息子の姿を重ねていた。夜、布団で震える肩。私は「寝なさい」と声をかけながら、ドアを閉めた——あの時と同じだった。


【夜】


 自宅。蝉時雨が窓を打つ。息子の部屋から漏れるゲームBGMが、不協和音を奏でている。私はノートPCを開き、報告書の最終章を打ち始める。


「……今後も継続的な検証を行い、必要に応じて条例の見直しを——」


 ふいにスマホが振動。木下玲子さんからの深夜メールだった。


『息子がリストカットしました。副市長、これが求めた数字ですか?』


 画面の光が暗闇に浮かび上がる。私はソファに座り直し、息子の部屋のドアに耳を当てる。低い泣き声。友達に裏切られた、という言葉が断片的に聞こえる。


 私はノートの余白に書き殴った。


『政策とは完璧な正解を求めるのではない。失敗を認めながらも前に進むことなのかもしれない』


 そっとドアを開ければ、息子はベッドでスマホを握りしめ、肩を震わせている。私は声をかけそうになり——やめた。代わりに、部屋の明かりを消し、蝉の声だけを共有した。


 明け方、染みのついた報告書をシュレッダーにかける音が、廊下に響く。新しいページに、今日の日付と「検証継続」とだけ記して、私はカーディガンを肩にかけた。エアコンの効きすぎた執務室へ、また数字を追いかけに行く。

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