第2話 自治の痛み
【午前】
八月二十六日、午前八時四十五分。市役所十五階の応接室で、私は教育委員会の幹部たちと向き合っていた。窓の外、朝の光を受けて、昨日の新聞記事が貼られた掲示板が見える。「全国初、スマホ利用時間制限条例成立」という見出しが、私の目を刺した。
市長からの朝の電話が耳に残っている。
「石黒さん、これで豊明市は全国の注目を集めた。うまく調整してくれよ」
調整、である。私は、佐久間政策課長が提示するデータと、教育委員会の不安の顔を交互に見た。
「条例は成立しましたが、具体的な指導方法はまだ未定です」
教育長の声は、冷房の効きすぎた室内で白く滲む。佐久間課長は、冷徹な声音で答える。
「データは明確です。スマホ使用時間を二時間に制限することで、学力向上と睡眠時間の確保が可能となります」
その瞬間、佐久間課長が落とした「スマホ使用時間推移表」の紙クズが、私の足元に転がった。私は、それを拾い上げながら、思った。数字は正しい。だが、現場は数字では測れない。
【午後】
三崎水辺公園の公民館。エアコンが壊れていて、室内は熱気むんむんだ。PTA代表たちの不満が、汗とともに噴き出る。
「副市長、罰則がないなら、子どもたちは守らないわ」
母親たちの声は、私の胸に突き刺さる。私は、市長の「話題性」を優先したことを思い出し、唇を噛んだ。
「自主性に任せるというのは、無責任では?」
非難の声が、公民館の壁に反響する。私は、市役所の冷房の効いた会議室との対比を感じながら、答えた。
「教育とは、押しつけるものではありません。家族で話し合うきっかけに、これほどのものはないのです」
だが、心の中では、娘の顔が浮かぶ。昨夜、SNSで三時間過ごしたことを隠しながら、私は「データは正しい」と繰り返していた。
次に、隣接部局の高梨課長と会議。彼は、机を叩いて詰め寄った。
「教育現場の混乱を放置するのか!」
私は、机の下で拳を握りしめた。汗がにじむ。高梨課長の言葉は、私の自責の念をさらけ出す。
「罰則なし条例は、無責任ではないか」
私は、声を押し殺して答えた。
「自治とは、完璧な制度でなく、互いの不満を認め合いながら少しずつ歩み寄るプロセスなのです」
だが、心の中では「また逃げた」と呟いていた。
【夕方】
自治会長・本田義郎宅を訪問。玄関先に、孫のスマホ没収袋がぶら下がっている。本田さんは、蚊取り線香の匂いを漂わせながら、昔話を始めた。
「昔は、暗い路地で鬼ごっこをしたもんですよ」
その言葉に、ヒグラシの声が重なる。私は、桶狭間の戦いの話題を振られた。
「織田信長も、奇襲を決行する前は、よくよく調整したんでしょうな」
調整、である。私は、本田さんの「罰則がないなら自主性に任せるべき」という持論に、頷きながらも、胸の奥に小さな痛みを感じた。
【夜】
自宅。娘の部屋から、泣き声が漏れてくる。
「2時間制限で、ゲーム友達に裏切られた」
私は、ドアに耳を当てながら、NHKの「スマホ依存症」特集のテレビ音声と重なる泣き声を聞いた。スマホの通知ランプが、深夜の闇で点滅している。市長からのメール予告だ。
「明日、全国報道の取材が入る。調整頼む」
私は、娘の泣き声を聞きながら、小さく呟いた。
「自治とは、完璧な制度でなく、互いの不満を認め合いながら少しずつ歩み寄るプロセスなのかもしれない」
私は、ドアを開けずに、スマホのランプを見つめ続けた。明日も、調整の一日が始まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます