第4話 現場の裂け目
【午前】
八月二十八日、午前八時十五分。政策課デスク。クーラーのききすぎた空気に膝が凍える。息子にもらったカイロをズボンの下に当て、誰にも見られないようスリッパで隠す。校正刷りの「スマホ2時間ルール啓発ポスター」を広げた瞬間、コーヒーカップが滑り——茶色い滴が「ご家庭でもルールを話し合おう!」という中学生の笑顔にかかる。
「村井さん、今日中に五十校配布完了ですよ」
佐久間課長がデータの列を振り回しながら立っている。私はシミをティッシュで叩きながら頷く。
「承知しています。午後三時までに回収報告書を」
数字は綺麗だ。配布率100%、掲示率90%。でも昨日の学校視察で見た光景が脳裏をよぎる——はがれかけたポスター、トイレでスマホを覗き込む生徒たち。私は「形式的なポスターで何が変わる」と高梨課長に言われた言葉を反芻し、カイロの温度を強く感じた。
【午後】
自転車ペダルを漕ぐと、アスファルトから立ち上る熱気が顔を打つ。ポスター束がカゴの中で湿り、インクの匂いを放つ。市立第三中学校到着。校長室でポスターを差し出すと、中原若手教諭が肩をすくめる。
「もう貼る場所がないんです。壁は全て進路指導と部活優勝写真で埋まってて」
廊下を歩けば、昨日貼ったはずの宣言ポスターが端からめくれ、透明テープが垂れ下がる。視線を上げれば、またしても「鉢花取引日本一」の表彰額。市長の出身校という共通項が、まるで条例の影のスポンサーのように見えた。
隣接部局へ戻ると、高梨課長が積まれた市民メールの山を指差す。
「『罰則なき条例はパフォーマンス』『税金の無駄』——手続きだけ整えて何が変わる?」
私は「教育委員会承認は正式に得ました」と答えながら、机の下で拳を握る。昨夜、息子のスマホを布団の下から抜き取った感触が蘇る。親であり、役人である自分の矛盾が喉に引っかかる。
【夕方】
川村彩さんの自宅。台所から漂うスイカの香りが、夏の終わりを惜しむように甘い。冷蔵庫から出されたスイカの皿を前に、私は喉が詰まる。彼女が差し出すスマホ画面——腕の内側に走る無数の爪痕。
「娘、スマホ没収されて友達と連絡取れず、リストカットしました。罰則がないなら子供は混乱するんです」
私は「お子さんのご様子をうかがい、関係部署と連携します」と役所言葉で答え、スイカの皿に手を伸ばす。でも指先が震えて、果実が皿に落ちる。甘い香りと血の匂いが混ざったような気がして、胃の底が熱くなった。
【夜】
自宅ベランダ。缶ビールのプルタブを開ける音が、ヒグラシの声に重なる。小学校五年の息子が部屋から顔を出す。
「お父ちゃん、クラスの友達に『お前のパパがつくった条例でみんな困ってる』って笑われた」
言葉の裏に、ゲーム端末の明かりが漏れる。私は苦笑いし、ベランダの手すりを握る。スマホ通知ランプが点滅——川村さんからのメッセージ。
「明日も来てください。話を聞いてほしい」
息子を膝の上に招き、缶ビールを脇に置く。
「一緒にルール作ろうか。お父ちゃんの職場でも、みんなで試行錯誤してるんだ」
息子は怪訝そうだが、小さく頷いた。私はノートを取り出し、蛍光灯の下で書き始める。
「行政の役割は完璧な正解を押し付けるのではなく、みんなで失敗を認めながら歩み寄る場をつくることかもしれない」
ベランダ越しに見える月が、白く浮かぶ。ポスターのシミ、剥がれたテープ、爪痕——それでも明日も自転車を漕ぎ、学校と家庭を往復する。カイロの温もりが、もう必要ないほど、夜風は優しくなっていた。
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