後編

数週間後、私は夜想カフェの前に立っていた。ここ数日、仕事も手につかず、ただただ心の中の澱と向き合っていた。


なぜ、私はあんなにも言葉を怖がるのだろう。言葉にできなければ、ずっとこのまま、暗い霧の中にいるようなものじゃないか。


「いらっしゃい」


マスターの声に促され、私は扉を開けた。今夜は他に客はいなかった。カウンター席に座り、いつものようにハーブティーを注文した。


「ずいぶんと思い詰めているようですね。心の荷を下ろすために、来たのでしょう」


マスターの言葉が、私の核心を突く。私は、握りしめていたカップを震わせながら、ゆっくりと口を開いた。


「……はい。私には、ずっと言葉にできなかったことがあるんです」


それは、社会人になってからの数年間、ずっと心の中で温めてきた想いだった。


「私、本当は、デザインの力で、誰かをほんの少しでも元気にするような、そんなものを作りたいと思っていて。でも、現実には締め切りに追われるばかりで……。いつしか、それはとても恥ずかしい、青臭い夢のように思えて、誰にも言えなくなってしまったんです」


声が震える。情けなくて、恥ずかしくて、途中でやめたくなった。


「本当は、ただ、誰かに、私のデザインを見て『ありがとう』と言ってほしかっただけなんです。ただ、それだけなのに……」


その瞬間、私の口からこぼれ落ちた「言葉の種」は、これまでのどの客のそれとも違っていた。

それは、小さな光の粒でも、ほのかな香りでもなかった。私の言葉は、透明な水のように溢れ出し、カフェ全体に満ちていった。





水は音もなく床を伝い、壁を滑り、私を取り囲む。


その水の中には、私がこれまでに手がけてきた小さなデザイン──ポスターの端に描いた星、ロゴマークの小さな花の模様、名刺のフォント──が、一つ一つ浮かび上がっていた。それはまるで、私のこれまでの人生が、言葉となって可視化されたようだった。


やがて、その水面が穏やかに揺れ始めると、水の中から、いくつもの温かい光が立ち上ってきた。光は、まるで誰かの笑顔のように、穏やかで優しい色をしていた。


その光景を、私はただ呆然と見つめることしかできなかった。

マスターは、静かに私の言葉の種を見つめていた。


「その言葉の種は、あなた自身が想像していたよりも、ずっと深く、温かいものだったのですね。あなたのデザインは、すでに多くの人々の心に届いている。その言葉は、彼らの感謝の光ですよ」


マスターの言葉が、私の心に直接触れた。そうだ。私は、結果が出ないことばかりに気を取られて、誰かの心に届いていたかもしれない「小さな光」を見ようともしていなかった。


私が口にした「言葉の種」は、カフェ全体を巻き込むような大きな現象を引き起こし、そして私自身の心にも変化をもたらした。


言葉にすることは、ただ重荷を下ろすことではなく、誰かと繋がる光を生み出すことなのだと、初めて知った。







帰り道、街のきらめきが、以前とは違って見えた。


それは、無数の人々の想いが、言葉となり、形となって溢れている光景に思えた。私も、その光の一つになれた気がした。



私は、ずっと押し殺していた感謝の気持ちを、明日、職場で伝えることに決めた。


そして、本当に作りたかったデザインを、もう一度、心の底から追求してみよう。


小さな一歩かもしれない。


けれど、その一歩は、誰にも言えなかった重い荷物を下ろし、言葉にできなかった想いを解き放った、温かい光に満ちた一歩だった。

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