真夜中の路地裏カフェと「言葉の種」

前編

高層ビルの窓から見下ろす街は、まるで無数の宝石を散りばめた絨毯のようだった。そのきらめきとは裏腹に、デザイン会社で働く私は、心の中がいつもぼんやりと曇っているような感覚を抱えていた。


仕事は好きだった。


でも、締め切りに追われ、人間関係に気を遣い、漠然とした不安が常に胸の奥に澱のように溜まっていく。それは誰にも言えない、言葉にならない感情だった。


言葉にしようとすればするほど、その輪郭は曖昧になり、形を失っていく。いつしか、私は自分の本音を深く心の底にしまい込むようになっていた。



その夜も、終電を逃し、会社から家まで歩いて帰ることにした。


人通りの少ない裏道を歩いていると、ふと、薄暗い路地裏の隅に、ひっそりと明かりを灯す小さな看板を見つけた。看板には、簡素な文字で「夜想カフェ」と書かれている。こんなところにカフェがあったなんて。不思議と惹きつけられ、私は吸い込まれるように扉を開けた。


「いらっしゃい」


迎えてくれたのは、物静かで穏やかな表情のマスターだった。店内は薄暗く、ジャズの音色が静かに流れている。客は私以外に一人、スーツを着た疲れた様子の男性がカウンターに座っていた。


私は隅の席に座り、温かいハイビスカスティーを注文した。男性は、グラスを指でなぞりながら、ぽつりぽつりと話し始めた。


「……もう、どうすればいいのか分からなくて。頑張っても、頑張っても、認めてもらえなくて。何もかも、空回りしているような気がするんです」


その声は、まるで誰にも聞かれないことを知っているかのように、細く、弱々しかった。


その瞬間、私は信じられない光景を目にした。男性の口から発せられた言葉が、小さな光の粒となって、宙を舞い始めたのだ。


それはまるで、真夏の夜に舞う蛍のようだった。男性が言葉を紡ぎ続けると、光の粒は数を増し、カウンターの周りを淡く照らす。


やがて、その光はそっと男性の肩に降り注ぎ、彼の表情がわずかに和らいだ。


「あれは……」


私が思わず呟くと、マスターが静かに頷いた。


「この店は、心に秘めた『言葉の種』を解き放つ場所。彼は、認めてほしいという切実な想いを言葉にした。その言葉の種が、光となって輝いたのですよ」


言葉の種──。マスターの言葉が、私の心に深く響いた。


数日後、私は再び夜想カフェの扉を開けた。今夜は、一人の女性客がいた。彼女は手にスケッチブックを抱え、苦悩に満ちた表情で話していた。


「描きたいものはたくさんあるのに、筆が進まないんです。頭の中のイメージが、うまく形にならなくて……」


すると、彼女の言葉の周りに、ふわりと薄緑色の香りが漂い始めた。


それは、雨上がりの土の匂い、あるいは新緑の森の匂い。やがて、その香りは彼女の描いたスケッチブックへと吸い込まれていく。そのスケッチブックを手に取ると、紙面から仄かに温かい空気が立ち上った。


マスターは静かに言った。「彼女の『言葉の種』は、雨上がりの香りになった。創作への渇望が、そのように形になったのでしょう」


その光景に触れるたび、私の心の中にある、ずっと言葉にできずに溜め込んでいた感情の存在が、はっきりと意識されるようになった。

それは、小さな不満や、どうしようもない諦め、そして誰にも話せなかったささやかな喜び。どれもこれも、言葉にできず、重く心を圧迫していた。


このカフェに来れば、私もこの重荷を下ろせるのだろうか。言葉にすれば、何か変わるのだろうか。そう思うと、胸が高鳴ると同時に、言い知れぬ恐怖も湧き上がってきた。


自分の心の奥底にある、醜く、情けない、あるいはあまりに純粋な感情を、他人の前で言葉にするなんて。そんなことができるだろうか。


私はただ、温かいハーブティーを一口飲むことしかできなかった。

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