第3話 わかれ
る日のこと。私は、重要なプレゼンの準備をしていた。
しかしながら、どうしても納得のいく資料が作れない。焦りと不安が私の心を支配し、私は再びあの本に手を伸ばそうとした。
その瞬間、携帯電話が鳴った。母からだった。
「もしもし、どうしたの?」
「大丈夫よ。ただ、今日、買い物に行って、昔、あなたと行ったお店のクレープ屋さんがまだあってね。あの頃はよく、二人で食べたわね。もうずいぶん前のことだけど、懐かしいわ」
母の声を聞きながら、私は胸が締め付けられるような痛みを感じた。
私には、そのクレープ屋の記憶がぼんやりとしか思い出せなかった。それは、私が時間を戻して、違うお店でクレープを食べたからだろうか?
私は、自分が何を得るために、何を失ってきたのかを、初めて心から理解した。
完璧なプレゼン資料を作ること。それは、私にとって重要だった。
でも、それは、母との大切な思い出を失うことの代償に見合うものだろうか?
私は、本から手を離した。
そして、時間を戻すのではなく、徹夜してプレゼン資料を作り直すことにした。
翌朝、私は不完全なままの資料を持って会社へ向かった。
プレゼンは、完璧とは程遠いものだった。
上司の厳しい指摘、同僚の冷たい視線。
私は、またしても失敗した。
だが、その夜、私は不思議と心が軽かった。
完璧ではなかったけれど、それは私が一晩かけて、自分の力で作り上げたものだった。失敗も、挫折も、すべてが私自身が経験した、かけがえのない時の欠片だった。
私は、再び「時渉堂」を訪れた。老人は、私の表情を見て、静かに微笑んだ。
「時間の流れは、美しく、そして脆い。しかし、その脆さがあるからこそ、一つ一つの出来事に、かけがえのない意味が生まれるのです」
私は、老人の言葉を深く噛み締めた。完璧な時間は、何も生み出さない。失敗や後悔、そしてそこから生まれる努力や成長こそが、私の人生を豊かにしてくれるのだ。
私は、手にしていたあの本を、老人に差し出した。
「もう、この力は必要ありません」
老人は、何も言わずに本を受け取った。
「また、いつでもいらっしゃい。ただ、この店は、いつもここにあるとは限りません」
私は、老人の言葉の意味を理解しようとせずに、店を後にした。
翌日、私はいつものように会社へ向かった。
相変わらず退屈な会議、山積みの書類。
しかし、私の心は、もう重くはなかった。
帰り道、私は再びあの路地裏に立ち寄った。
しかし、そこにあったはずの「時渉堂」は、もうどこにも見当たらなかった。
ただ、古びたコンクリートの壁が、静かにたたずんでいるだけだった。
私は、その場所で、微かに残る紙と黴の匂いを嗅いだ。それは、私が失った記憶の欠片と、私が取り戻した時間の尊さを、静かに物語っているようだった。
私の人生は、もう完璧ではない。
けれど、不完全だからこそ、その一瞬一瞬が、かけがえのない輝きを放っている。私は、そう信じて、今日のこの時間を、ただ大切に生きていこうと決意した。
そして、その日の夕日も、いつものように、しかし、私にとっては特別に美しく見えた。
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