第2話 ほころび
それから、私はその力を使って日常の小さな不満を解消するようになった。
朝の満員電車で、誰かが私にコーヒーをこぼしたとき。
私はすぐに時間を巻き戻し、その人が私の近くに来る前に、一歩横にずれた。その瞬間、私は自分の完璧な選択に密かに微笑んだ。
しかし、ふと、横にずれたことで、本来出会うはずだった誰かと、すれ違ってしまったのではないか、という漠然とした不安がよぎった。
仕事でプレゼンの内容をミスしたとき。私は時間を少しだけ戻し、完璧なスピーチをやり直した。人々の称賛の言葉を聞きながらも、私の心はどこか空虚だった。この成功は、本当に私の力で掴んだものだろうか?
友人との会話で、つい言ってしまった余計な一言を後悔したとき。
私はその言葉を飲み込むために、時間を戻した。
しかし、次に会ったとき、友人はなぜか私に対して少しだけ距離を置いているように感じられた。もしかしたら、私が存在しない過去で、何か別の出来事が起こってしまったのかもしれない。
私の日常は、まるで完璧に編集された映画のように、不満や後悔が一切ないものになっていった。
しかし、その完璧さには、奇妙な違和感が付きまとっていた。それは、まるで精巧に作られた人形のように、生きた感情や温かみを失っていく感覚だった。
ある日、私は時間を戻すたびに、ほんの少しだけ、何かが失われていることに気づいた。
それは、私の記憶の欠片だった。
最初は些細なことだった。昔好きだった歌の歌詞が思い出せなくなったり、親友と初めて出会った日の出来事がぼんやりしたり。やがて、その欠片は大きくなり、私を形作る大切な記憶そのものが、まるで砂のように指の間からこぼれ落ちていく感覚に襲われた。
私は怖くなった。
古書店で老人が言った言葉が、頭の中で反響する。
時間を動かすたびに、あなたは何かを失います。
その言葉の意味が、今、痛いほど理解できた。私が失っているのは、単なる記憶の断片ではなかった。それは、私の人生を形作る、かけがえのない経験そのものだったのだ。
私は再び「時渉堂」を訪れた。
老人は、私が何も言わなくても、すべてを見透かしているかのように静かに微笑んだ。
「その本の力に、すっかり慣れてしまったようですね」
老人は、店の奥の椅子を私に勧めた。私は椅子に腰を下ろし、震える声で尋ねた。
「どうして……どうして、私は記憶を失っていくんですか?」
老人は、ゆっくりと語り始めた。
その声は、穏やかでありながら、深淵を覗き込むような静けさを持っていた。
「この本は、時間を巻き戻すのではなく、あなたの時間を切り取って、別の場所に貼り付けているのです。時間とは、ただ流れていくだけの川ではありません。それは、一つ一つの出来事、感情、記憶が織りなす、美しい織物のようなものです。あなたが時間を切り取って貼り付けるたびに、その織物から、あなたの記憶という名の時の欠片がこぼれ落ちていくのです」
私は老人の言葉を理解し、背筋が凍りついた。
私が失っているのは、単なる記憶の断片ではなかった。それは、私の人生を形作る、かけがえのない経験そのものだったのだ。
「この世界には、あなたのような時の番人が、ごく稀に生まれます。彼らは、こぼれ落ちた時の欠片を拾い集め、元の場所に戻す役割を担っています。しかし、一度失われた時の欠片は、二度と同じ場所には戻りません。それは、バラバラになって、別の誰かの人生の欠片と混ざり合ってしまうのです」
私は絶望的な気持ちになった。
私の完璧な日常は、他の誰かの人生を少しずつ歪ませていたのかもしれない。私は、自分のわがままのために、大切な何かを壊していたのだ。
私は、もう二度とこの力を使わないと誓った。
しかし、一度味わってしまった甘い誘惑から逃れることは、想像以上に難しかった。
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