路地裏の古書店と時の欠片
第1話 であい
木枯らしが吹き抜ける午後、私はいつものように憂鬱な足取りで会社からの帰路についていた。退屈な会議、上司の冷たい視線、そして山積みになった書類の山。
すべてがグレーの霧の中に溶け込んでいくようで、私の心は重く沈んでいた。
ふと、見慣れない細い路地が目に留まった。
コンクリートの壁に囲まれたその道は、まるで忘れられた時の一部のように静まり返っていた。好奇心に駆られて足を踏み入れると、その奥にひっそりと佇む古書店があった。
店先には埃を被った古い看板がぶら下がっていて、墨で書かれた「時渉堂」という文字が、薄暗い光の中でかろうじて読み取れた。
古びたガラス扉を開けると、鈴の音とともに、黴と紙の匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
店内は薄暗く、天井まで届くほどぎっしりと本が詰まっていた。店の奥には、白髪の老人が静かに文庫本を読んでいた。その姿は、まるで時間から切り離された存在のようだった。
「いらっしゃい」
老人は顔を上げず、穏やかな声で言った。
私は言葉に詰まりながら、古びた本棚の間をさまよった。自己啓発本、歴史書、小説、詩集。どれもこれも、私が普段手に取るようなピカピカの新しい本とは違う、歳月を重ねた重みと物語を帯びていた。
その中で、私の指先が吸い寄せられるように一冊の本に触れた。
表紙は革のような質感で、何も書かれていない。ただ、触れた瞬間、指先から微かな振動が伝わってきた。何かに導かれるように、私はその本を手に取り、レジへと向かった。
「おや、それは……」
老人は私の手元を見て、少しだけ驚いたような表情を浮かべた。その目は深い湖のように穏やかでありながら、奥には何かを知っているような光を宿していた。
「代金は結構です。ただ、一つだけ注意してほしい」
老人は静かに言った。その声は、囁くようでありながら、私の心に深く染み込むような響きを持っていた。
「その本は、あなたの時間を少しだけ、動かすことができる。ですが、時間を動かすたびに、あなたは何かを失います。そのことを忘れないでください」
私は老人の言葉の意味がわからず、戸惑いながらも本を受け取った。
その本は、手のひらに乗せると不思議なほど軽く、しかし、計り知れない重みを内包しているように感じられた。
家に帰り、私はその本を机の上に置いた。
何も書かれていないページをめくると、指先から伝わってきた微かな振動が、今度は手全体に広がっていく。
その瞬間、私の頭の中に、奇妙な感覚が流れ込んできた。それは、まるで自分が時間を遡り、過去の出来事を追体験しているかのような感覚だった。
次の日の朝。
いつものように遅刻しそうになって、慌てて飛び起きた。電車に乗り遅れ、会社のデスクに着いた時には、すでに会議が始まっていた。上司の厳しい視線が突き刺さり、私の心はまた沈んだ。
その日の夜、私は机の上のその本をじっと見つめていた。
老人の言葉が頭の中を巡る。
時間を動かすことができる。
その言葉は、まるで暗闇の中に差し込む一筋の光のようだった。
もし、本当にそんな力があるなら、私のこの灰色に塗りつぶされた日常を、少しだけ彩ることができるかもしれない。
半信半疑のまま、私はその本を開いた。すると、再びあの振動が伝わってきた。
私は、無意識に「今日の朝、もう一度やり直したい」と心の中で強く願った。その願いは、私の中のどうしようもない無力感と後悔から生まれた、純粋な叫びだった。
次の瞬間、私の視界が白くぼやけ、気がつくと私はベッドの中にいた。
まだアラームが鳴る前だ。時計を見ると、時間は会議が始まる2時間前を示していた。信じられない、しかし、確かに私の体は時間と共に巻き戻されていた。
私は呆然と立ち尽くし、自分が体験したことが夢ではないことを確認した。もう一度、私はベッドから飛び起きた。
今度は、遅刻することなく会社に着き、会議にも間に合った。上司の冷たい視線は、今日は私には向けられなかった。プレゼンもスムーズに進み、私は心の底から安堵のため息をついた。
その日の夜、私は興奮と同時に、少しの罪悪感を感じていた。
たった一つの願いで、私は時間を巻き戻したのだ。
それは、まるでゲームのセーブ&ロード機能のようだった。失敗を恐れずに済む、完璧な人生を歩むことができる、そう錯覚するほどに、その力は甘く、魅力的だった。
私は、この力が日常の不満を解消する魔法の杖のように思えた。
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