やっぱり、お兄ちゃんのご飯がいちばん好き

沙知乃ユリ

やっぱり、お兄ちゃんのご飯がいちばん好き

冷蔵庫を開けると、キャベツの芯があった。それとにんじんの皮、あとは卵がひとつ。

中学一年生の僕には、これでどうやって妹の朝ごはんを用意するかが、いちばん大きな課題だった。


「お兄ちゃん、わたし寝起きだから、お腹空いてないよ?」

まだ小学三年生の妹が、眠たそうに目をこすりながら台所を覗く。

最近、妹が遠慮して嘘をつくようになった。でも、その声に少しだけ期待が混じっているのもわかった。


「そっか。……今日は卵料理にしようかなと思ってたけど」

妹は「やった」と手を叩いて、登校の準備を始めた。

キャベツの芯は食べやすいサイズに切って、にんじんの皮はよく火を通して、卵でとじてみよう。うん、なんとか形になった。

食卓に並んだ小さなおかずを前に、妹は心から嬉しそうに言った。


「やっぱり、お兄ちゃんのごはんがいちばん好き」


父親は産まれたときから居ない。母親は三年前からほとんど家に寄りつかず、たまに見かけても、数千円を置いてさっさと出て行くようになった。

あるときには、学校の先生から、たった一人で子供を必死に育てている良いお母さんだな、と言われたことがあった。そのときから、僕は大人に頼ることを辞めた。


児童相談所とかいう場所もあるらしいけど、僕らの家に来たことはなかった。母が時々顔を出すせいかもしれない。それに、たった一人の家族である妹と離れるのは絶体にイヤだったので、むしろ好都合だった。


僕が妹を守る。

そして僕は、妹の笑顔に救われていた。


だけど、学校は僕に現実を見せつけてくる。

友達の机の上には、新品のシャープペンと真っ白なルーズリーフ。キレイな服を着て、満たされた顔をして、週末には家族で外食に出かける。

親が世話をしてくれることに何の疑問も持たず生きている。

そして同級生もみんな同じだと思って、僕にも声をかけてくる。


僕の机には、短くなった鉛筆とチラシの裏紙。服を洗濯したのはいつだろう。

人に話せるような話題もない。


からっぽの胃袋と一緒に、心まで小さく縮んでいく。

おなかと背中がぺったんこになって、消えてしまえば良いのに。

僕は机にお腹を強く押し当てた。


放課後、僕はいつものように妹を迎えに行った。

ランドセルを背負った妹は友達と楽しそうに話していた。僕の顔を見つけると、跳ねるように駆け寄ってきた。


「おにいちゃん!」

「今日は特売だから、スーパーに寄ってこうな」

「うん!」


手をつないで、夕暮れの帰り道を歩く。小さい手が僕の心をふんわりと温めた。

安売りの商品を一緒に選ぶ時間は、まるで宝探しのよう。妹はいつも笑っていた。

「お兄ちゃんと、ずっと一緒にいたいな」

妹がふと呟く。

「……うん」

胸の奥が少し疼いた。


夜。

妹を寝かしつけたあと、僕はひとりで外に出た。

食費を少しでも浮かせようと、パン屋、惣菜屋の閉店時間の後を狙う。廃棄予定の食べ物を恵んでもらえることは、稀にあるからだ。寒風が僕の頬を打ち付けるが、妹の笑顔のために歩き出した。


かなり遠くまで歩いたが、今日の戦利品はゼロだった。

空っぽのスーパーの袋を手に、とぼとぼと人気のない帰り道を歩く。

不意に背後からヘッドライトの光が足元を照らした。

振り向くと、黒い車が静かに停まっていた。


後部座席のドアが開き、ゆっくりと女性が降りてくる。

大人びた美しさと、どこか危うい雰囲気をまとっていた。


「こんばんは」

透き通るような声が、闇夜に響いた。


「疲れているでしょう。送ってあげるわ」

僕は思わず足を引いた。胸の奥で、心臓が大きく跳ねる。知らない大人についていってはいけない。わかってはいても、体が固まって動けなかった。


まぶしいヘッドライトが消える。街灯がスポットライトのように女性を映し出した。

腰まであるストレートの黒髪は光を吸収してキラキラと波のように揺れる。足下まである茶色のロングコートは、彼女を守る鎧みたいだった。テレビの向こうにいる芸能人みたいだ。現実離れした人が目の前にいる。


女性は僕の前でしゃがみ、視線を合わせる。不思議な目をしていた。

「大丈夫よ」

微笑みながら、そう声をかけてきた。何が大丈夫なのかはわからない。けれどその声は、縮こまっていた心の奥にまで沁みていく。幼いころ、母さんに寝かしつけられたときの声に少し似ていた。


「……家に帰らなきゃ」

喉が乾いて、かすれ声しか出なかった。


「おなか、すいてるでしょう?」

彼女はすらりとした手を伸ばし、ドアの向こうを示す。甘いパンと、ココアの香りが漂ってきた。誘われるように足が前へ出る。

革張りのシートがほのかに光り、毛布が待っている。まるで違う世界の入口みたいだった。


喉が鳴った。

妹を食べさせるためにずっと我慢してきた。そうだ、僕は我慢していたんだ。その事実に気づいた瞬間、心が大きく揺れた。


「外は寒いわ。帰るにしても、少し休んでからにしましょう」

柔らかな声が僕の逃げ道を塞ぐ。

温かい食べ物と毛布の誘惑に、抗える気がしなかった。


「大丈夫よ」

彼女はもう一度、同じ言葉をくり返し、僕の頭を優しく撫でた。


僕の耳に残る「大丈夫よ」という響きが、遠い記憶を掘り起こした。

まだ母親が家にいたころ。熱を出して布団にうずくまっていた僕の額に、冷たいタオルを当て、僕の頭を撫でながら母は同じことを言った。「大丈夫よ」って。あの頃、僕はその言葉を信じきっていた。


でも——母親は去った。

「大丈夫」なんて嘘だった。僕と妹の世話を投げ出した。

そのときから、僕が妹を守るしかなかった。学校を休んででも、炊事も洗濯も全部やった。妹が夜泣きして眠れないときは、一晩中抱きしめて背中をさすった。

大丈夫だって言い聞かせたのは、母じゃなくて僕だった。


胸の奥から、熱いものがせり上がってきた。

安心じゃない。懐かしさじゃない。

「大丈夫」なんて軽々しく言う声への、どうしようもない怒りだった。


「……いらない」

気がつくと僕は呟いていた。

女性の微笑みがかすかに揺らいだ。


「僕には、妹がいる」

自分でも驚くほどはっきりした声が出た。

踵を返し、夜道を駆けだした。冷たい空気が肺を刺す。けれど、心臓は確かに前へ前へと僕を押し出していた。


胸を焼いた怒りの余韻を抱えたまま、僕は走り続けた。

母親の言葉なんて、もう信じない。あんな声に揺らぐものか。僕には妹がいる。守るべき妹が。


だからこそ、僕は帰ってきたんだ。

冷たい鉄のドアノブをひねり、勢いよく扉を開け放つ。


「ただいま!」

声が虚空に消える。


部屋は暗く、しんと静まり返っていた。電気をつけても、きれいに畳まれた布団だけ。


机の上には、折り紙で作った小さな鶴が一羽だけ残されていた。

昨日、妹が「宿題の合間に作った」と言って笑っていたものだ。


「嘘だろ……」

足の力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。


いつもなら「おかえり」って笑って迎えてくれるはずだった。

その笑顔が、どこにもない。

声も、温もりも、消えてしまっていた。


妹は居なかった。


どれくらいそうしていたのか、わからない。

いつのまにか、玄関にはさっきの女性が佇んでいた。


「……いないんだね」

女性は僕の顔を見て、何もかも知っているかのように静かに言った。


「もう、ここに、あなたの居る意味はない」

僕には何も言い返せなかった。


「おいで」

僕は操り人形みたいに、言われるまま足が動いた。

運転手らしき男が後部座席を開けて待っていた。吸い込まれるように僕は車に乗り込み、後部座席に身を沈めた。このまま地面の下まで落ちていく感覚を覚えた。

バックミラーから見える家は霧の中にかすんで消えた。


________________________________________

数年後

ステージの上。

熱狂の声が押し寄せ、光の海が僕を包む。

名前を呼ぶ声も、拍手も、歓喜のざわめきも。

それらはすべて、分厚いガラスの向こうの出来事のようだった。


「ありがとう!」

そんなことはおくびにも出さず、最高の笑顔で手を振り、歌い踊る。


あの日、僕を迎えに来たのはアイドル事務所の女性社長だった。

空っぽになった僕は、社長や周囲の大人の期待に完璧にこたえることができた。

そうしてアイドルとして成功した僕は、今や豊かさに囲まれている。


だけど。


胸に空いた大きな穴は、埋まらないままだった。

母親の末路も、妹の行方も、裏の噂で耳にした気がする。

けれど、もはや強い関心は抱けず、何もかもが穴からすり抜けていった。


それでも、仕事のやりがいに救われる瞬間はある。

同僚との何気ない会話に温かさを感じることもある。

社長の眼差しに、母親のような愛情を錯覚することもある。

少しずつ、ほんの少しずつ、前へ進んでいるのかもしれない。


ある面では僕は妹に依存していたのかもしれない。

守りたい人を失ったからこそ、自分の足で歩けるようになったのかもしれない。


だけど、空っぽになった僕の胸が、時々勝手に思い出す。

狭い台所。わずかな野菜と、卵ひとつで作った野菜炒め。

「やっぱり、お兄ちゃんのご飯がいちばん好き」――

あの笑顔は、どんな光よりもまぶしく、僕の胸を焦がす。


歓声が響くステージの上で、僕はふと喉を鳴らした。

あのとき我慢したように。

だけど今は、それを隠す必要もない。


目の前に広がるスポットライトの海を見つめながら、

僕はまた、妹の残した小さな鶴のことを思い出している。


――――――――――――――――――――――


◆あとがき

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

喪失の中から生まれる変化を、ひとつの成長として描きたいと思いました。

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