1-11 クマの正体
次の夜、夜の始まりを告げる鐘の音と同時にピアノの音が鳴り響いた。
アニンが弾くのは協奏曲。十九世紀の有名な楽曲らしいけど、私には詳しいことはわからない。ただ、私達以外には無人の大広間にそれはよく響いた。
「こうして見れば、ここはこんなに広かったんだ」
他の客どころかメイドの姿もなく、今夜だけはクマの貸し切りだ。テーブルや椅子も全て片付けて、中央にはひと際大きな皿を床に置いてある。そのサイズに合うクローシュで中を見えないように蓋をしていた。
「なんだか緊張すると、アニンの曲が聞こえなくなる」
「集中してるからだろ。自分の内側に意識が持ってかれてるんだ」
「そう言うアニンは弾きながらでも、いろんな音が聞こえるよね」
私は壇上に立つと、ゆっくりと深呼吸した。
そうすると、空気と一緒に彼女が奏でるリズムが胸を満たすような気がしてくる。頭の中もクリアになるにつれて、私はこれまでのことを振り返った。
――子グマのことから昨夜の騒動の顛末。
メイド長と別れた後、植物園の中に隠れていたメイド達を発見して私は事情を説明した。
もう一度だけ挑戦したいこと。誰も巻き込まずに私一人でやること。今までのことを謝ると、彼女達の反応は様々だった。素直に受け入れてくれる子もいれば怒る子もいたり……。
『策はあるんだよね?』
『一応。失敗したら、その時点で緊急事態の鐘が鳴る』
その時、クマは今度こそ必ず幽世から追放される。そうメイド長が約束した。
『イルミンだけじゃ失敗すると思うぜ』
『え?』
そこでアニンが神妙な空気に水を差した。
『つーわけで、あたしも残る。どのみち、こいつを置いて逃げるなんてごめんだぜ』
そう言ってグランドピアノの鍵を掲げて見せた。一体いつの間に私から取ったのかと思ったけど、なぜか他に反対するメイドはいなかった。
「リーリエは『アニンがいれば安心』とか言うし。そんなに頼りないか、私?」
一晩かけて策を考えたのは私。その間、彼女はピアノを弾いてるばかりだったのに……。
「来たぞ」
「っ……」
玄関から聞こえる地響きに私も気が付いた。拳を握りしめて広間の入り口を見つめていると、巨大なクマが壁をきしませながらズリズリ音を立てて入ってくる。
いや、その見た目はクマというより巨大な黒い毛玉だ。頭に比べて胴体が膨張し過ぎている。腹部が蠢くような動作をすると、それはまっすぐ大広間の中央に置かれたお皿へと向かった。
「今だ」
「おーらい」
私の合図でクラシカルから童謡へと旋律が変わる。
温かみがある曲だけれど、クマは気付いた様子もない。ただ、皿のすぐ目の前で何か違和感に気付いたのか鼻をひくひくさせた。
「そこにあるのは食材じゃない」
私はステージから降りると、おそるおそるクマへと近づいた。向かい合う距離になると、クローシュを外して中の物を見せる。
そこにあるのは赤ちゃんの人形だった。
「これがあなたの会いたかった人です」
クマはそれを見るなり、明らかに表情をこわばらせた。
「あなたの正体は子供の母親……いや、妊婦だ」
アニンの奏でる『こんにちは、あかちゃん』の曲が流れる中、相手の目が次第に見開かれていく。口も大きく開いて驚愕の表情になると、ゆっくりと手を人形へと伸ばした。
もう間違いない。一緒に来たと言ったのはきっと、お腹の中の赤ちゃんのことだ。昨日の剪定係との戦いで、まるでお腹を守るような動作をしたり、体の内側から蹴り出すような挙動があったのがその証拠。
「食べ物をたくさん食べていたのも、二人分の栄養を取るため。体力をつけないと子供は産めないだろうから」
それにもしかしたら、生前は飢えに苦しんで産めなかったのかもしれない。
唯一、赤い料理を食べようとしなかったのは血を連想したからなんだろう。それが現世で産もうとした時に出た血なのか、何なのかは推測するしかないけれど――
「とにかく、あなたの未練はこれではっきりした」
すると、クマは咆哮を上げた。
とても悲しい声だった。目から一筋の涙を流し、人形を持つ手は震えている。
「お願いだから、これで――」
「イルミン、離れろ!」
鍵盤を叩きつける音が響いた瞬間、私は思わず後ずさった。
その直後にクマが大きな皿を片手で吹っ飛ばした。あそこに立ったままだったら、きっと直撃していたに違いない。
「ど、どうして!? 悪霊化が止められない!?」
悲しい声音のはずが、苦しそうなうめき声に変わっていく。人形も力で潰れそうだ。
とにかく後ずさると、アニンもピアノから離れて私のそばへと駆けてくる。
「イルミン、こいつはたぶんアレだ。産まないと終わらないってやつだ」
「産まないとって、どういうこと!?」
「未練をはっきりさせたところで、断ち切らないと意味がねー! 産み直しをするぞ!」
「いや、でも! 産むって、どうやって!?」
知識としてはわかるけど、今のクマは人間じゃない。大体、経験したことなんてないし、どうすればいいかもわからない!
「そ、そうだ! 帝王切開! 剪定係を呼んで、お腹を切ってもらうのは!?」
「昨日、弾き返されてたじゃねーか。それに血を見たらアウトだぜ」
「じゃあ、どうしろっての!」
私はもうパニックになってきた。アニンも難しい顔でクマを見つめている。
「こちとらティーンエージャーだぞ。んなもん、わかるかってんだ。押すか引っ張るかして、中のやつを出しゃいーんだろうが」
「そんなめちゃくちゃな」
「それしかねーだろ。大体、腹をよく見てみろ。中にいるやつは産まれたくねーみたいだ」
確かに暴れるクマは体を仰向けにするなり、身をよじって苦しそうにしている。必死に力んでいるのが、離れた場所でもよくわかった。
「きっと、ママの中にいたいんだぜ」
「でも、出てきてもらわないと」
このままじゃクマ自身が危ない。とはいっても、落ち着かせないと私が近付けない。
ロープがないか厨房に探しに行こうとした時、勝手口の扉が開いているのに気付いた。そこからメイド達がこっちを見ている。
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