第6話
第七埠頭、第三倉庫。潮の匂いに、錆びた鉄の匂いが混じる。
レイの目の前で、黒塗りのリムジンから現れた少女――ノアは、ガラス玉のような瞳で言った。
「これからは、あなたの人生そのものを買います。私に、『本物』を教えてください」
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。あまりにも、現実感がなさすぎる。
「……ふざけるな」
やっとのことで、それだけを絞り出す。
「人の人生を買う? あんたみたいな金持ちの遊びに、付き合ってる暇はねえんだよ!」
レイが背を向けて立ち去ろうとすると、ノアの冷静な声が、彼の足を引き留めた。
「遊びではありません。これは、あなたの妹さんを救うための、最も合理的で、唯一の恒久的な解決策です」
振り返ったレイの目に、ノアが手にした端末の立体映像が映し出される。そこに表示されていたのは、マナの病状の進行予測グラフと、今後必要になる治療費の、天文学的な数字。
「あなたの記憶売買による収入では、二年後、妹さんの生命維持は不可能になります。これは予測ではなく、確定した未来。ですが、私のサポートがあれば、その未来は覆せる」
「…………」
「感情的になる意味が分かりません。あなたのプライドという感情データは、妹さんの生命維持という最優先事項に対して、著しい不利益をもたらしています。さあ、取引しましょう」
ノアの言葉には、一片の悪意も、見下すような色もなかった。ただ、あまりにも純粋で、あまりにも冷徹な「論理」だけが、そこにあった。
その正しさが、レイの心の奥底に眠っていた、最後の何かに火をつけた。
「……あんたには、ただのデータなんだろうな」
レイの声は、自分でも驚くほど、静かに響いた。
「俺たちが、このゴミみたいな街で、毎日何を想って、何を諦めて、それでも必死に生きてるかなんて。あんたには、全部、意味不明なエラーに見えるだけなんだろ」
「……不合理な感情的ノイズである、とデータは示しています」
「そうかよ」
レイは、自嘲するように笑った。
「あんたが買おうとしてるのは、そういう俺たちの人生そのものだ。俺が売ってきた記憶に価値があるんだとしたら、それは俺がこのクソみたいな現実を生きてるからだ。あんたが金で買おうとしてる『本物』ってのはな、そういう泥水の中から生まれるもんだ。それを、泥水の苦しさも知らねえあんたが、金で買う……? これ以上、俺たちの人生を、侮辱するな」
レイの言葉に、ノアは初めて、少しだけ眉をひそめた。
「……帰れ」
レイは、絞り出すように言った。
「俺の心は、あんたみたいな奴に味わわせるためにあるんじゃねえ」
その言葉に、ノアはしばらく黙ってレイを見つめていた。しかし、やがて、彼女は静かに一礼すると、無表情に戻った。
「……分かりました。あなたの選択は、非合理的ですが、尊重します。今回の提案は、一度白紙に戻しましょう」
彼女はそれだけ言うと、静かにリムジンに乗り込んだ。音もなくドアが閉まり、巨大な車体は、まるで幻だったかのように、埠頭の闇へと消えていった。
嵐が去った後、レイは一人、その場に取り残された。
自分の誇りを、人間としての尊厳を守った。そのはずだった。
だが、彼の目の前には、パトロンを失うという、あまりにも厳しい現実だけが横たわっていた。
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