第7話

 第七埠頭からアパートに戻った後、レイは一睡もできなかった。

 目を閉じれば、ノアの言葉が頭の中で響く。


『あなたの妹さんを救うための、最も合理的で、唯一の恒久的な解決策です』


 あの時、俺は誇りを守ったはずだった。自分の人生を、心を、ただの商品のように扱うあの少女に、人間としての反論を叩きつけた。すっきりした、とさえ思った。


 だが、夜が更け、一人になると、その高揚感は急速に色褪せていった。代わりに、鉛のような後悔が、腹の底にじわじわと溜まっていく。


(……俺は、馬鹿だったんじゃないのか?)


 そうだ。馬鹿だった。プライド? 尊厳? そんなもので、マナの薬が買えるわけじゃない。あの時、あの少女が差し伸べた手は、狂っていたが、確かにマナの未来を保証する唯一の蜘蛛の糸だったのだ。

 俺は、それを自ら、断ち切った。


 マナの部屋から聞こえる、生命維持装置の静かなリズムが、今は自分の心臓の音を責め立てる時限爆弾の秒針のように聞こえた。





​ 翌朝、レイの目の下には、濃い隈が浮かんでいた。

 ぼんやりとした頭でキッチンに向かうと、そこにミオがいた。彼女は、何かを察しているのか、何も言わずに朝食の準備をしている。


「……ミオ」

「おはよう、レイ。昨日は、遅かったんだね」


 その、あまりにも普段通りの声が、逆にレイの神経を逆撫でした。


「……別に。お前には関係ないだろ」

「関係なくないよ」


 ミオは、手を止めて振り返った。その瞳には、深い心配の色が浮かんでいる。


「昨日、ジンと喧嘩したって聞いた。何かあったの? レイ、あなた、すごく危なっかしいよ、今」

「うるさいな!」


 レイは、思わず声を荒らげていた。ミオの優しさが、自分の愚かな決断を浮き彫りにするようで、耐えられなかった。


「俺のことは放っておいてくれ!」


 ミオの肩が、びくりと震えた。傷ついた顔で、何かを言いかけたが、やがて唇を噛み締めると、静かに首を横に振った。


「……ごめん。でも、ご飯はちゃんと食べてね」


 彼女は、レイの分の食事をテーブルに置くと、逃げるように部屋を出ていった。

 一人残された部屋で、レイはテーブルの上の食事を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。

​ 居ても立ってもいられず、レイはアパートを飛び出した。

 金だ。金が必要だ。誇りなんて捨てて、どんな汚い仕事でもやってやる。

 レイは、カイトの店へと駆け込んだ。


「カイト! 仕事はねえか! 今すぐ、まとまった金になる、ヤバい仕事でも何でもいい!」


 カウンターの奥で、カイトは珍しく、驚いたような顔でレイを見た。


「おいおい、どうしたんだよ、急に。……まさか、昨日のお貴族様との話、蹴ったのか?」

「……ああ」

「はーっ……馬鹿な野郎だ、お前は」


 カイトは、心底呆れたというように、ため息をついた。


「でかい話なら、あるぜ。一つな。だが、お前には絶対にお勧めしねえ」

「構わねえ。教えろ」

「……C.M.社の、非合法な臨床実験の被験者だ。新しい感情抽出技術のテストらしい。成功すれば大金が手に入るが、失敗すれば、良くて廃人、最悪、脳が焼き切れて死ぬ。どうする?」


 その言葉に、レイは息をのんだ。それは、記憶を売ることとは次元の違う、命を賭けるギャンブルだ。

 だが、今の自分に、他に道はあるのか?


​ レイは、カイトの店を後にして、再びストレイ層の汚れた空の下を、目的もなく歩いていた。


 誇りを守った結果が、これだ。

 友人を傷つけ、幼馴染を泣かせ、そして、自分の命を天秤にかけるしか、道は残されていない。

 後悔と焦りが、黒い霧のようにレイの心を覆い尽くしていく。あの時、あの少女の手を取っていれば。

 そんな、ありえないもしもだけが、頭の中をぐるぐると回り続けていた。

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