第3話 『聖光の聖女』リリィ
私が先生と呼ぶあの人と出会ったのは、まだ私が七歳になる前のことだった。
前のことは、あまりよく覚えていない。ただ、薄暗い路地に捨てられて、なにもできずに転がって、寒くて、お腹がすいて、孤独だったことだけははっきり覚えている。
そんな私に、あの人は当たり前みたいに声をかけてきた。
「お前、名前は?」
「……わかんない…です…」
「そうか。じゃあお前は今日からリリィだ。俺んとこに来い。飯くらいは出してやる」
そのときの私は、よくわからないまま「はい」と答えていた。
後から思えば、それは不思議な声だった。冷たいようで、優しいようで、距離を取っているようで、それでいて心の底から安心できる声。
その日から、私は街外れの孤児院で暮らすことになった。
立派な建物ではなかった。屋根は雨の日になるとところどころからしずくが落ちるし、壁はひび割れていたし、冬は隙間風が冷たかった。
最初の頃は自分一人だった。だが、それから少しずつ人が増えて…いつの間にか、賑やかな場所になっていた。
先生は……どちらかというと、あまり優しい人ではなかったと思う。
「自分のことは自分でやれ」「飯は残すな」「怪我をしたら自分で手当てしろ」「ひっつくな」…そんな言葉をよく言っていた。
でも、誰かが本当に困ったときは、必ず助けてくれた。できないことはできるようになるまで教えてくれるし、ちゃんと無理なことはやらせない。
冬の夜、貰った毛布が薄くて眠れないとき、何も言わずに自分のコートを掛けてくれたり、熱を出して倒れたとき、薬を買ってきて、無言で側に置いてくれたり…
そういう優しさは、先生はいつも隠すようにしていた。
私が一番覚えているのは、誕生日…いや、私と先生が出会った日から一年が経った日。
覚えていてくれたのか、たまたまなのかはわからないけれど、パンに甘いジャムを塗ってくれた。
「ほら食え。それ高かったんだからな。しっかり味わえよ」
その味は、今でも鮮明に覚えている。甘くて、あたたかくて、胸の奥がじんわりする味だった。
あの孤児院で過ごした日々は、私にとってかけがえのない宝物だ。
あの頃の私は、先生がなぜ私を拾ってくれたのかも、何のために世話をしてくれるのかも知らなかった。
ただ、あの人のそばにいれば安心して生きていける。そう思っていただけだった。
その日は、朝から少しだけ空気が違っていた。
先生はいつもより早く起きていて、私を呼び出すと、無言で椅子に座らせた。
そして、慣れない手つきで私の髪を櫛で梳き、絡まった部分をゆっくりほぐしていく。
こんなことをしてくれたのは、初めてだった。
「……痛くないか?」
「だ、大丈夫です」
少し心配そうに聞くその声に、私の胸がくすぐったくなる。
髪を整えた後、新しい服と靴を渡された。
白色のワンピースは、まだ少し大きくて、袖が手の甲まで隠れる。
靴も新品で、革の匂いがした。
「着てみろ……まぁ、馬子にも衣装ってところか」
いつも通り、よく分からない言葉を呟く先生だった…だけどほんの一瞬、口元を緩めたように見えた。
私はそれが嬉しくて、胸の奥がぽっと温かくなった。
そのまま私たちは馬車に乗り、街を出た。
道中、先生はあまり多くを語らなかったけれど、時々窓の外を指差しては「ほら、あそこは麦畑だ」「あれは川だ」と教えてくれた。普段はあまり見られない優しい横顔に、私は外じゃなく、先生へと何度も視線を向けた。
やがて馬車は止まり、私の目の前に白い大きな建物が現れた。
高い尖塔と、大きな鐘楼。まるで絵本で見たお城のような教会だった。
門の前で待っていたのは修道服を来たシスターさんだった。先生を見ると頭を下げ話を始める。何を話しているのかはわからなかったけれど、先生はずっと真剣な顔をしていた。
やがて、こちらに戻ってくると、私の肩に手を置いた。
「……ここなら、お前はもっと良くなれる。ここが、今日からお前の居場所だ」
その言葉を聞き、ここで先生と別れるのだと理解した。
でも、泣くのは違うと思った。これは、先生が私を捨てるのではなく、私が成長するための旅立ちなのだ。
「頑張れよ」
先生はそれだけ言って、私の背を軽く押した。
私はそのままおずおずと門の中へと歩き出す。
振り返れば、先生の背中はもう遠ざかっていた。手には小さな皮袋が握られていた。
でも、不思議と涙は出なかった。その代わりか、胸の奥で小さく燃える灯のようなものを感じていた。
――絶対に、先生に恥じない人になる。
あの日から、私は教会での生活を始めた。
最初は知らないことばかりで、礼拝の作法や祈りの言葉さえぎこちなかった。
でも、私は決して諦めなかった。
――ここは、先生が私を信じ送り出してくれた場所。
だったら、ここで胸を張って「成長した」と言えるようにならなければ。
朝は鐘の音で起き、祈りを捧げ、授業を受け、奉仕をする。
夜は遅くまで本を読み、薬草や治療の知識を覚えた。
最初は失敗ばかりで、怪我を治そうとして逆に傷口を広げてしまったこともあった。
でも、その度に先輩やシスターが手を取り、私にやり方を教えてくれた。
そのおかげか、私は奇跡を使えるようになった。
最初は小さな傷を治せる程度、だけど、少しずつその力…聖力と呼ばれる神の力は大きくなっていき、ついには病気をも癒やした。
病を癒やす力はとても貴重らしく、シスターの皆さんにとても驚かれた。
そしてある日。
村で疫病が流行り、私は病を治す力を持っている、ということでそこへ派遣されることになった。
初めて、治癒師として外に出る任務。
怯える人々の前に立ち、必死に祈り、病を癒やす。
その瞬間、天から滝のような光が私へと降り注ぎ、それはその村へ、そして近くの街へ、いつしかその国へと広がっていった。
気づけば、目の前で苦しんでいた人々が笑顔を取り戻していた。
――あぁ、これが私のやるべきことなんだ。
その瞬間、心からそう思えた。
そして同時に、胸の奥で小さく呟く。
先生、私、できましたよ。
あなたが言ってくれた「もっと良くなれる」って、きっとこのことですよね。
それから、私は聖都に招かれ、聖女となり、数々の地で人々を助けた。
時には盗賊に狙われ、魔物の群れと遭遇することもあった。国中に死病が蔓延し、竜が魔物を引き連れ国を襲おうとすることすらあった。
でも、その度に立ち向かい、乗り越えた。
気づけば、『聖光の聖女』と呼ばれるようになっていた。
聖なる力も更に大きく強力に成長し、歴代最強の聖女なんて言われるようにもなった。神の力のせいか、体が成長しなくなったことは少し残念だが…
そんな私は、十数年の時を経て教皇様からの命で、再び先生の元へ向かうことになった。
理由は簡単。
先生が聖人として認定され、その存在が世界に知れ渡ったから。
守る必要があると、聖国が判断したのだ。
でも、私にとってはそんな理由は二の次だった。
あの時、私を送り出してくれた人の元に戻れる。
それが嬉しくて、馬車の中で何度も窓から空を見上げた。
(先生、待っててください……)
そうして孤児院の門をくぐった時――窓際にエルフだからか、自分と同じように、変わらぬ姿の先生が見えた。
胸の奥にしまっていた灯が、一気に燃え上がる。
あぁ、やっと帰ってこられた――。
「────え?」
「間に合いました、先生…!」
部屋の中にいた邪魔者を消し、私は先生への胸へと飛び込む。
その時感じた熱を、私は彼に伝えられないのだろう。今になって理解したが、聖女とはそういうものだ。
だけど、それでも……
この想いは、永遠に冷めることのない熱を帯びている。
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