第4話 お買い物
朝の光が古びた窓から斜めに差し込み、埃の粒が太陽の光に反射し舞っている。
孤児院の食堂では、まだ湯気の立つスープの匂いが漂っていた。長机の上には、木の皿に盛られた白色のパンと、昨夜のスープに新しい肉と野菜を足した温かな一皿。
それに、昨日ヒマリが市場で特売だったと鼻高々に持ち帰った林檎が、子どもたちの前に置かれていた。
建物はボロいが、食事は俺も口にするので妥協はしていない。そのためパンはライ麦の黒パンではなく小麦でできた白パン。肉は鮮度のいい魔物の肉で野菜は家で取れたものだ。
「おい、パンは握りつぶすな。切って食え、切って」
「はーい!」
汚い食べ方は商品としての価値を損なう。そのためしっかりと注意しながら食事をする。
そんな注意にスプーンを握った子どもたちが、口を揃えて返事をする。スープをすくう音や、パンをかじる小さな歯の音が、朝の空気をやさしく満たしていた。
食堂の入り口から、その賑やかな光景をリリィは静かに見つめている。
白金色の長い髪が朝日に透け、翡翠色の瞳が子どもたちの笑顔を映す。彼女の存在は、このありふれた朝を一枚の聖画に変えてしまうほど、異質で美しかった。
そんな彼女は、その光景を懐かしいと昔を思い出していた。
ここには昔から、温かい笑い声と、誰もが自然に交わす小さな気遣いがある。
それを感じ取り、思い出すたびに、リリィは胸の奥がくすぐったくなるような感覚に包まれていた。
「先生、今日の予定はありますか?」
エイルは視線をスープから外し、片眉を上げた。
「今日?……ああ、ヒマリが買い出しに行くって言ってたな」
「院長、食事は終わりましたか?」
タイミングを計ったように、厨房から修道服姿のヒマリが。手にはすでに買い物リストが握られている。
「今日と明日の分の食材と、それに…お皿が数枚割れてしまったので、少し遠くまで行きたいんです。荷物が多くなるので、一緒に来てください」
「……つまり荷物持ちってことだな」
「そうです。院長ですから」
まるで当然の義務であるかのように言い切るヒマリに、エイルは短くため息をつき、少し早めにスープを掻き込みパンを食べ終える。
だが、その会話に柔らかな声が割って入る。
「では、私も同行します。護衛ですから」
微笑をたたえたままのリリィが一歩前に出た。
「いや、街中だぞ? 別に危ない場所じゃ──」
「護衛ですから」
二度目はより静かに、しかし有無を言わせぬ強さがあった。
護衛の必要性は…正直、孤児院から市場までの道のりにはほぼない。一応俺も武装は手放さないつもりだし。
だが、昨日は孤児院の中で襲われたし念の為ということもあるだろう。
そんなとき、ヒマリが「構いませんよ」と軽く受け入れてしまったことで、買い物隊は三人編成となった。
食器を片付け、子どもたちに留守番を言い含め、玄関先で支度を整える。
エイルは普段通りのシャツに加え、大きめの布袋を肩にかけた。
ヒマリは財布とリストを抱え、リリィは聖女としての正装である白色のローブや、昨日来ていたワンピースではなく、淡い水色の外套を羽織っているが、その存在感…というか顔はどう見ても街で目立つ。
なんというか、オーラが違うのだ。
…まあ、これは仕方ない。どうせバレることだ。最初にぱっぱと宣伝したほうが面倒事も少ないだろう。
「じゃ、行くか」
「はい」
「先生は必ずお守りします」
扉が開かれ、朝の街の空気が流れ込む。冷たい風と、遠くから聞こえる市場のざわめき。
石壁に囲まれた細い道を抜ければ、少し湿った匂いと、焼き立てのパンや香辛料の香りが混ざり合って鼻をくすぐる。
「……本当に二人で行く必要あるか?」
朝早くから歩かされ、少し面倒くさそうに袋を肩に掛けたエイルがぼやくと、すぐ横を歩くヒマリが淡々と答える。
「必要です。私じゃ持ちきれませんし、院長一人じゃ、十中八九どこかで余計な買い物をして帰ってきますから。これ以上変な魔導具を買われては困ります」
「……余計って言うな。俺が買う魔導具はどれも──」
「事実です。それに今日はリリィさんが護衛でしょう? 私が止めないと財布を盗もうとした人間が、その場で天に召される可能性もありますし…」
後ろを歩くリリィが、こてんと首を傾げる。
「天に召すって……そんなことしませんよ?」
「……本当か?」
「やりません!」
そんな軽口を叩きながら、三人は石畳の大通りへと出た。
朝市の喧騒が一気に押し寄せる。
魚屋の威勢のいい声、果物売りの軽妙な呼び込み、鉄器屋の金属を叩く音が入り混じり、街全体が生きているようだ。
香ばしい肉の匂いと甘酸っぱい果実の香りが、風に乗って鼻をくすぐった。
「おや、エイルじゃないか!」
パン屋の丸太のような腕の男が、粉まみれの手を振る。
「昨日のパンは好評だったか?」
「ああ、美味かったよ。あいつらも喜んでた」
「そりゃ良かった! 今日は特別に焼き立てを……お?随分と別嬪さんを連れてるじゃないか。ほら、そっちの別嬪さんも食べてみな」
男は笑顔で、小ぶりなパンをリリィに差し出す。
「ありがとうございます」
リリィは両手で受け取り、嬉しそうに目を細めた。
その様子を見た周囲の客たちが、その美貌にざわめく。中には聖女?と気づくものも少なくない。
そんな騒ぎになっても、リリィは笑顔を崩さない。
その横で、ヒマリは別の八百屋に目を止めた。
「ここの根菜、前より状態が良いですね。仕入れ先を変えました?」
「お、ヒマリちゃんよく気づいたな。北の農村のやつだ。最近どうやら雪の中でも育つ方法が見つかったみたいでな?それが随分と味が良くてなぁ」
「なら買いです。院長、これと――あ、そっちのも…」
「野菜はあんまりいらないんじゃないか?」
「エルフなんですから好き嫌いせずにもっと草食ってください、草を」
ヒマリの毒舌に、八百屋の主人は声を上げて笑った。
彼女は街の店主たちに顔が広い。俺もこの街に来て長いため割と馴染んではいるが、今ではヒマリのほうが人気で有名だ。
さらに進むと、通りの端で小さな子どもたちがリリィに駆け寄ってきた。確か、向こうの通りのガキ共だったか…?
「きれいなお姉ちゃん!お花あげる!」
差し出されたのは、小さな野花を束ねた不揃いな花束。
「わぁ……ありがとう。すごく綺麗ですね」
リリィはしゃがみ込み、子どもと目線を合わせて受け取った。
まさしく聖女らしい行動である。
そうやって、リリィを見せつけるように歩きながら市場の中心へと歩みを進めると、周囲はさらに賑やかさを増していた。
色とりどりの屋台が並び、香辛料の香り、焼き立てのパンの香り、果物の甘酸っぱい香りが入り混じる。人々の喧騒が、まるで街そのものの心臓の鼓動のように響いた。
「……この街、朝から元気だなぁ…」
エイルが呟くと、ヒマリは淡々と答える。
「活気があるのはいいことです。金の流れも安定しますし、孤児院に寄付してくれる人も増えるでしょう」
リリィは両手を前に組み、興味津々で周囲を見回している。
「先生、あそこに人が集まってますよ?」
指さす先には、小さな広場があり、そこでは大道芸の準備をしている人物がいた。
白と赤の縞模様の衣装に、笑顔を描いた道化の仮面を被った男。
肩には小さな鳥が止まり、手には鮮やかな色のボールを何個も持っている。
「……大道芸か」
「面白そうですね!少し見ていきませんか?」
リリィが嬉しそうに歩み寄る。こういうのはあまり見たことがないのだろうか?その芸を目にして随分と楽しそうだ。
「……まあ、見物料もいらなさそうだし、少しくらいならいいか」
道化師は人々に向かって派手な身振りを交えながら、ボールを軽やかに宙で操る。観衆からは歓声と拍手が上がる。
「おや!とても可愛いお嬢様がいらっしゃいましたね!それではそんな貴女には特別に空中ショーをお見せしましょう!」
道化師がそう言うと、彼女にジャグリングしていたうちの一つのボールを空高く投げると、そのボールがパン、とくす玉のように破裂し中から宝石のような紙吹雪と共に青い小さな石が現れる。
リリィはそれを、軽やかに受け止めてにっこり笑う。
「わあ、すごいですね!」
その無邪気な反応に、周囲の観客も笑顔になった。
その後も、道化師は、観客に向けて軽いジョークを言ったり、更なる芸を見せ観客を笑顔にする。
彼の存在は、この朝の市場に柔らかな明るさをもたらしていた。あまりこの辺りでは見かけない為か、随分と見物客が多い。
そんな観客の輪を抜けて、エイルとヒマリ、リリィは屋台の列を歩き始める。
先程とは別の八百屋で、ヒマリがさっさと値段を確認し、品定めをする。
「院長、こちらの野草は向こうより値段が安いです。こちらも買いましょう」
「肉は?」
ヒマリはエイルの言葉を無視し、袋に数個の野菜を入れる。
そうやって進んでいると、通りの角で老夫婦がエイルに声をかける。
「おや、あの子はまた捨て子かい?随分と可愛いようだけれど?」
「いえ、この子は昔に孤児院にいた子で……里帰りに来たんですよ」
「ほう、そうかい。ゆっくりしていくんだよ」
優しい微笑みに、リリィも小さくお辞儀を返す。
朝の市場は、忙しさの中に人々の温かさがある。
道行く人々は親しげに会話し、買い物に夢中になり、時にはリリィを見て驚いたりする。
俺が見ていないうちにもちゃんと話しかけられているようで、彼女はいつの間にかすぐにこの街に馴染んでいた。
すると、大道芸人の道化師が人混みから現れ、こちらに向かって軽くお辞儀をする。
「また来てくださいね、可愛いお嬢さん。その宝石は大事にしてくださいね」
「はい!ありがとうございます!」
リリィはそれに嬉しそうに応える。
そうして、彼らの足取りはゆっくりと、だが確かに街の温度を感じながら続いていった。
「──絶対に、手放さないでくださいね?」
まだ事件は起こらない。その日は、ただの、温かく賑やかな日常だった。
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