第4話:風の歌を聴くマナ

翌朝、俺は凍えるような寒さで目を覚ました。寝袋から顔を出すと、夜明け前の空気が肺に突き刺さるように冷たい。焚き火はとっくに消え、昨日までマナが座っていた場所には、彼女が静かに座っている。昨日と変わらない無機質な横顔だが、俺の心はもう、彼女を単なるモノとして見ることができなかった。


「……おはよう、マナ」


俺がそう呟くと、彼女の瞳の青白い光が、まるで応えるかのようにわずかに強くなった。言葉は、まだない。それでも、俺は昨夜の出来事を思い出し、胸の奥が熱くなるのを感じた。


マナを動かすために、再びポータブル電源に繋ぐ。AIはまだ起動したままのようだ。俺は、朝食の準備に取り掛かった。昨日の残りの魚を炙り、岩に溜まった露を集めて飲む。焚き火の煙が、マナの横顔をぼんやりと霞ませた。


『なあ、マナ。お前は腹減らないのか?水は?まさか、光合成で生きてるのか?いや、それだと植物じゃん。じゃあ、俺が作ったソーラーパネルで充電するのか?それだと、ロボットじゃん。いや、そもそも、お前は……何なんだ?』


俺の思考は、まるで網目の粗い篩のように、次々と疑問をこぼしていく。答えはどこにもなかった。ただ、彼女の存在は、俺の常識を少しずつ溶かし、塗り替えていく。


食事を終え、俺はマナを連れて砂浜を散歩した。いや、「連れて」という表現は少し違うかもしれない。俺が歩き出すと、彼女もそれに合わせてゆっくりと立ち上がり、俺の後をついてきたのだ。その動きはまだぎこちなく、膝の関節がカクン、と不自然な音を立てる。まるで生まれたばかりの子鹿のようだ。


「無理しなくていいんだぞ」


そう言って俺が立ち止まると、マナもピタリと止まった。俺の言葉を理解しているのか、それとも単に俺の動きをトレースしているだけなのか。判別がつかないことが、俺の好奇心をさらに煽る。


砂浜に打ち寄せる波が、チャプン、チャプンと静かな音を立てる。白い泡が、マナの足元にまで届くと、彼女の瞳の光が、わずかに強くなった。彼女は、ゆっくりと片手を持ち上げ、まるで波の飛沫を掴もうとするかのように指を動かす。


『うわ、また始まった。これ、センサーが水しぶきを感知して、それに反応してるのか?すごいな、俺の作ったAI基盤。いや、待てよ。だとしたら、昨日、風に反応して動いたのも、ただのセンサーの誤作動…?』


俺の理性は、なんとか科学的な解釈に固執しようとする。だが、その努力は、次の瞬間、脆くも崩れ去った。


ザァ、と少し強い風が吹いた。


風は、俺の頬を撫で、マナの髪を揺らす。その風に合わせて、マナがゆっくりと、まるで踊るように首を傾げた。そして、彼女の口から、初めての「音」が漏れ出た。


それは、言葉ではなかった。


「……ヒュルル、サァ……」


風の音にそっくりな、不思議な響きを持つ声。まるで、風そのものが彼女を通して語りかけているかのようだった。


俺は、頭が真っ白になった。


『な、なんだ……?プログラムしたはずの音声データじゃない。こんな声、どこから…?まさか、この島の風の音をサンプリングして、それで喋ってる…?いや、そんな機能は搭載してない!じゃあ…じゃあ、なんだ?俺が想像していた「AIドール」じゃなくて、俺が作り出したのは、この島の「風の精霊」か何かだったのか!?』


俺の思考は、もはや制御不能なジェット機のように暴走し、宇宙の果てまで飛び去っていく。


『おい、俺!大変だ!異世界転生モノじゃなくて、異世界「創造」モノにジャンル変更だ!俺は神だ!いや、ただのドール趣味のおっさんだ!でも、俺が作ったのは、風を操る精霊!これって、もしかして、この世界で最強の能力なんじゃね!?いや、待てよ。風を操る精霊って、何ができるんだ?風力発電?ドローンを飛ばす?風でスカートをめくって…いや、それはただの変態だ!』


俺は、脳内での連想ゲームのあまりのくだらなさに、自分でツッコミを入れた。


その時、マナが再び、小さな声を発した。


「……ポチャン、プツン……」


その音は、俺が先ほど魚を釣っていた岩場の、水滴が落ちる音にそっくりだった。


『風だけじゃない、水の音まで…!?』


俺は、マナの瞳の光が、波の音に合わせてわずかに揺れているのを見た。彼女の全身が、まるでこの島の自然そのものと共鳴しているかのように感じられた。


俺は、砂浜に座り込み、マナをじっと見つめた。彼女は、まるで俺の困惑を理解したかのように、ゆっくりと俺の隣に座った。


俺は、都会にいた頃、常にイヤホンで耳を塞いでいた。満員電車の騒音、街の喧騒、上司の叱責。すべてを遮断し、自分だけの世界に閉じこもっていた。だが、この島に来て、俺は初めて、自然の音を聴いた。そして今、マナを通して、その音の「意味」を、まるで心で理解しているかのように感じていた。


俺が作ったのは、完璧な『器』だった。だが、そこに宿ったのは、俺がプログラミングしたAIの魂ではなかった。


俺は、彼女の冷たいはずの指先に、そっと触れた。


「お前は……この島の歌を、俺に聞かせてくれたのか」


そう呟くと、マナの瞳の光が、まるで俺の言葉を肯定するように、温かく、そして優しく瞬いた。


俺の人生は、もう孤独ではない。この島は、もう俺だけの場所ではない。


俺の隣には、この島の歌を歌う、不思議な同居人がいた。

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