第3話 小フーガ ト長調
小フーガ ト長調
後ろ手にドアを閉め、何歩か先で立ち止まった綾野くんの横に並ぶ。
目に飛び込んできたのは、部屋の真ん中にある豪華なソファ。赤い革張りで控えめな光沢は、合皮なんかじゃなさそう。いくらくらい、するのかな。そう考えてしまった自分が少し恥ずかしい。本革の匂いがここまで、漂うように思うのは、多分気のせいじゃない。
周りにずらっと椅子を並べて、キャンバスに苦労して描いた、友達のようなものを思い出してほんの少しだけ鬱になる。
他にはシンプルなベッド。
(演技で使うのかな?)でも、演技ってどんな?
オーディションといえば、偉い人たちが並んで審査をするものとばかり思っていたけど、あっちこっちにあるカメラを通じて、見るのかしら。
調整室?みたいなところから指示とかが、あの大きなモニターに出るのかな。
羽虫の飛ぶようなぶぅんという音が、静かな部屋に広がってまた少し肩のこわばりを感じる。
私はソファに目をもどしながら、息を整える。
「なんだか、美術室みたいだね」つぶやいた声が、思いの外大きく響いた。
横を見ると綾野くんは、ゆっくりと室内を見まわしながら、「待てよ」とか「くそっ」とかわずかに聞こえる程度に吐き出している。
ひょっとして、もう審査って始まってるのかしら?彼は経験者なのかな?言葉にしてくれないから、全然わからない。
「部屋、間違えたのかな? ちょっと確認してみないか?」
そう言いながら、入り口の方に進もうとした。私も目で追いながら向きを変える。
「ガチャ」
沈み込むような音が響き、うぃぃんと言う振動が鉄の棒を床から持ち上げる。
訳がわからず、つい綾野くんの腕を掴む。ビクッとしたが腕を振り払ったりしなかった。
急に部屋が広がったような気がして。天井から重い空気が二人の上に降り積もった。
綾野くんが胸ポケットからスマホを取り出したが
「圏外だ」桜坂さんは?
慌てて取り出す。手が震えて汗でスマホが滑る。
「私も……」
「キャリアが違うから、障害とかじゃないな」
ちょっと早口で漏らす。
なんか、すごい。こんな時になんて冷静なの。
彼の頼もしさに少しだけペンダントの揺れがおさまる気がした。でも、閉じ込められて逃げられないと言う事実が私を重く包んだ。
ぷつん、という音に振り向くとモニターにスーツの男が現れる。
『さあ、舞台の幕開けです』
それから、しばらくの出来事はよく思い出せない、前後も少しあやふや。「流出動画」「捏造」「撮影」「保管」「ネット」切れ切れの単語とただ綾野くんが敢然と立ち向かう後ろ姿が焼き付いている。
そして、ひとつだけ間違いないのは、あの男の言う通りにしないと、夢が潰え人生は破滅するということ。
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