第56話 欲しかったもの

 俊介のアパートに到着し、早速キッチンに立つ。

 鍋を用意してから、二人並んで材料の下ごしらえを始めた。

「本当に自炊してるんだ……」

 早苗は俊介の手際の良さを見て驚いた。

「そうだよ。信じてなかったの?」

 包丁さばきが堂に入っている。

「あ、でもネギは輪切りより斜めに切ったほうがいい」

 早苗は、貸してと言って包丁を奪い取り、実演して見せた。

 すると感心したような「おー」という声を上げられる。

「鍋っぽい」

「鍋だって」

 思わず笑った。

 

 自炊をするから料理について教えて欲しいと言われ、最初は本気ではないだろうと軽く考えていた。

 メールでの話題と言えば、早苗の発信していた内容のことばかりで、盗み見たSNSのアカウントから、ツイキャスやポストをストーカーのようにチェックされていたと知っていたから、気を引くために敢えて話を合わせているのだと思っていた。

 しかし彼は本気で興味を持っていたらしく、実際に調理してみたり、モンパルナスで豆も買ってみたりもしていたそうだ。料理アカウントでもないたかが主婦の、誰に聞かせるでもない発信をわざわざメモまでして、節約術も真似て、安い材料で満足できる料理を作れて嬉しかったと言っていた。

 事実彼は節約家で、収入のほとんどを実家に仕送りをして、自分の分は必要最低限で生活しているらしい。


「東京のいい大学に通わせるために、共働きで学費を稼いでいてくれたから、その恩返しっていうか」

 多忙なうえに趣味もなく、あるとすれば自炊と節約だという。

 気が合うどころではない。彼とはすり合わせる必要がないくらいに価値観が似ていた。

「だから、生田兄弟とは親しかったんだ。あいつん家は親父さんが早くに亡くなって、うちとは比較にならないくらいに貧乏だったんだけど、お互いに帰宅しても親がいないから、夕方はいつも一緒に過ごしてた。あいつらは兄弟分担で家事とかしてたから料理もできる」

「生田さんが?」

 少し意外だ。華麗にレストランというイメージがあるからだろうか。

「早苗ほどじゃないけど、雅紀の飯もめちゃくちゃ美味いよ」

「へえ。食べてみたいな」

「無理だろうな。レアだから」

 そう言って彼はニカッと笑った。

 俊介は、その生田と早苗が一瞬ながらも接近したことを知っている。しかし彼は話題を避けようとせず、メールでも自ら振ってくる。それほど、自身の周りにいる人達を大切に考え、その人物同士の関係がどうあっても構わないらしい。

 

 早苗は生田から、実は智也に頼まれて騙していたと打ち明けられ、そして同時に、想いを寄せているとも告白された。

 つまり、最初は頼まれたから近づいただけだったが、のちに本気になったということらしい。

 ショックを受けなかったと言えば嘘になる。しかし謎が解けてすっきりした気持ちが強かった。生田がなぜ自分に感心を持ったのか、いくら考えてもわからなかったからだ。

 それに、諸悪の根源は智也だ。長い付き合いだと思っていたのに、そんな酷いことを平然とできるやつだとまでは知らなかった。離婚だけでなく告訴までしてよかったと、少なからず抱いていた心残りが消えたほどだ。

 生田に対しては、誠実にも謝罪をしてくれたことで責める気持ちにはならなかった。さすがにレストランの駐車場での彼が演技をしていたとは思えなかったし、思いたくもなかったから、当時の自分を憐れまずに済んで安堵できた。


 やはり生田はとても魅力的で、見つめられるとドキドキしてしまうし、本気だと言われて飛び上がるほど嬉しかった。

 しかし早苗は丁重にお断りした。そのとき既に心の中には、別の人への想いがあったからだ。


 彼のような人は初めてだった。

 早苗と同じ目で物を見て、同じように感じてくれる。飾る必要もなく、緊張もしない。彼といると穏やかな気持ちになれるし、安らぐことができる。


 早苗が欲しかったのはそれだった。

 ときめきも多少はあるけど、生田を前にしたときと比較すると些細なレベルだ。早苗が欲しかったのは安心だった。

 不安になることもなく、気持ちを探る必要もない。怯えることも、気を張り詰めることもない。

 何を言っても嬉しげに返してくれて、求めると喜んで応じてくれる。まるで早苗を喜ばせることが自分の喜びなんだと言わんばかりに、こちらに配慮をして気遣ってくれる。

 それがなによりも欲しかったことで、彼だけが与えてくれる唯一のものだった。


「ねぇ俊介」

「なに?」

「引っ越そうと思ってて」

 鍋もつつき終え、そろそろカフェについて相談しようと思って切り出した。

「実家出るってやつ? あ、早苗ももう一本飲む?」

 俊介は三本目のビールを開けながら聞いた。

「私はもう十分かな。帰れなくなるし」

「タクシーで送るよ。まだ飲みたいでしょ?」

 早苗はまだ一本しか飲んでおらず、確かにもう一本飲みたい気分ではある。

「じゃあ、あと一本。でもタクシーなんてお金の無駄だから終電で帰るよ」

「終電だと俺が戻れないじゃん」

「タクシーだったとしても同じじゃない?」

「あ、そうだね」

 相変わらず間が抜けている。仕事では重責を担わされているらしいから、その反動で日常は呆けているのだろうか。

 やはり俊介に期待するのは無理かもしれない。泊まって行くように仕向けたり、ムードを作るとか、そんなことをするタイプとも思えない。

 俊介の気持ちは確認するまでもないし、早苗も離婚をしたあとはアピールをしているつもりだった。今夜も俊介が引き止めるならホテルに戻らなくてもいいつもりで、準備をしてきていたのだが。

 

「じゃあ、そろそろ送ろうか。東京は慣れてないだろうから、ホテルまで送るよ」

「うん」

 やはり帰す気満々のようだ。

 俊介は立ち上がり、コートを取りに寝室の方へ消えた。

 早苗もそれに倣い、俊介の後を追う。

「早苗のコートは……あった。荷物は大丈夫?」

「うん」

「はい」コートを手渡される。

 早苗は受け取ろうとせず、俊介をじっと見つめた。

「どうしたの?」

「始発でもいいんだけど」

「えっ?」

 挙動不審になった。どういう意味なのか探りきれていない感じだ。寝室でここまで言ってもだめらしい。

 まったく仕方がない。

 

 早苗は俊介に近寄り、そっとキスをした。

 彼は硬直してしまい、早苗のコートを床に落とした。

 動揺した様子におかしくなるも、笑っている場合ではない。

「帰らないから」

 そう言って俊介を抱きしめた。



 早苗と絵麻は、離婚をした途端に自分でも驚くほど活力がみなぎっていた。夫から抑圧され、無気力に生きてきたこれまでの反動とばかりに、自分の意志を持って行動をし始めた。

 互いの存在があったからというのも、もちろんある。しかし、自分が愛する以上の愛を返してくれる相手に出会ったことも大きい。

 幸せにしたいと思う以上に幸福にしてくれる。何をしても喜んでくれて、さらにその喜びは倍になって返ってくる。相手は求めを押し付けず、受け入れるかどうか判断させてくれる。

 そんな愛に包まれているから、安心して自らの意思をぶつけることができる。


 そういった安心は、二人の経験した結婚生活では得られなかったものだった。

 離婚するために、二人が奮起したから得られたものだ。

 離婚は、一度抱えた希望を諦めなければならず、過去の自分を否定するのも精神的に辛いものだった。しかし、乗り越えたからこそ、今のこの幸福を享受することができているのだ。



 夫たちに別れを告げてよかった。

 早苗と絵麻は、そう心底思っているに違いない。

 そして、不幸を味わった分、いやそれ以上にたっぷりと幸せになることだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さらば、愛しき夫よ 七天八狂 @fakerletter

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ