第5話『天才の片鱗』
午後の授業は、専門物理学。
巨大なデジタル黒板に、難解な数式が並ぶ。
宇宙航行技術の基礎となる理論だが、ほとんどの生徒にとっては、ただの暗号の羅列にしか見えない。
「――現在の長距離航行の主流は、この『クエーサー・リンク』を用いたものだが、ご存知の通り、船内時間と外部時間に著しい差異、いわゆる
物理教師の単調な声が、午後の気だるい教室に響く。 リリコは、必死に睡魔と戦いながら、デジタルノートの端に落書きをしていた。
「そこでだ。――野宮リリコ」
「ふぇっ!?」
不意に名前を呼ばれ、リリコは素っ頓狂な声を上げて立ち上がった。 教師が、呆れたように眼鏡の位置を直す。
「クエーサー・リンクとは何か、答えてみろ」
「え、あ、はい、えーっと…、 クエーサー・リンクとは……」
【『クエーサー・リンク』 …… 28,000件ヒット】
【データ展開: 量子もつれ、EPRパラドックス、非局所性相関……】
【出力処理: 言語化シークエンス …… エラー】
【警告: 概念が複雑すぎて要約できません】
【緊急参照: 類似イメージ検索 …… アニメ『カリュブディス戦記』】
リリコは視線を泳がせる。 教科書の説明なんて、難しくて覚えていない。 脳裏に浮かぶのは、アニメで見た、ワープシーンのイメージだけだ。
「えーっと……すっごい遠いところにあるクエーサー星と、こう、リンクして……ビュンッ!て、すぐに行けちゃうみたいな……?」
身振り手振りを交えた、擬音だらけの説明。 教室のあちこちから、こらえきれない笑い声が漏れる。
「ぷっ、ビュンって」
「ブリ子らしいなー」
リリコは顔を真っ赤にして縮こまる。 だが、教師は意外にも、小さく頷いた。
「……まあ、あながち間違ってはいない。量子もつれを利用して座標を『リンク』させるという点ではな。語彙力は壊滅的だが」
ドッと教室が湧く。 リリコは「ほっ」と胸をなでおろして席についた。
「だが、その『ビュンッ』の間にも、外の世界では何年も時間が経ってしまうのが問題なのだ。 」
「そこで帝国軍は、全く新しい航行理論の実用化を急いでいるわけだが……」
リリコは、そんな授業にも真剣な表情で食らいついていた。
「――というわけで、この時空連続体の歪みを補正するためには、どのような変数が必要になるか。誰か分かる者は?」
教師の問いかけに、教室は水を打ったように静まり返る。
誰もが視線を下に向けてやり過ごそうとする中、一人だけ退屈そうに窓の外を眺めていた。
「――では、転校生。レヴィ・ストラウス」
名指しされたレヴィは、億劫そうに立ち上がると黒板を一瞥し、こともなげに答えた。
「虚数時間におけるエネルギー密度の負の値を定義し、それを時空計量に組み込むだけです。
まあ、現実的には、AMPコアの量子トンネル効果を精密に制御して、局所的な負のエネルギー空間を生成する方が手っ取り早いですが」
「おお……」
クラスの誰一人理解していない回答に、どよめく。
言い終わりに、レヴィは視線だけを横に流した。 その先には、さっき「ビュンッ!」と答えて顔を赤くしているリリコがいる。
レヴィの涼しげな瞳が、一瞬だけ悪戯っぽく細められた。
リリコは、その無言の圧力と、あまりの格好良さに、言葉を失って縮こまるしかない。
よどみなく紡がれる言葉に、教師は感心したように頷く。
「すごい……」
アカネが、隣の席で小さな声で呟いた。
「AMPコアの量子トンネル効果にまで言及するなんて。あれって、まだ仮説段階の技術なのに」
「ちょっと待ってください、アカネ。そのAMPコアというのは、一体何なのですか?」
ミヤビが、話に割って入る。その目は、完全に置いてけぼりを食らった読者の目をしていた。
アカネは、待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「簡単に言うとね、パイロットの“こう動け!”って気持ちを、AMP、つまり増幅して、直接エネルギーに変えちゃう、やっばい心臓みたいなもの!
理論上は、乗り手の気合次第で無限にパワーが引き出せるって言われてる、夢のエンジンだよ!」
「気合で無限パワー、ですか? なんだか、マンガの話みたいですね…!」
ミヤビの素直な驚きに、他の生徒たちもざわめき立つ。
「幸せな解釈ね。50点。あれは、そんな生易しいものじゃないわ」
「そういえば、今度のテストパイロット選抜、旧世代の生体キーを採用した機体って噂だよ。250年前に大事故を起こしたドライブの後継機……」
「え、なんでー、教科書にあった『プリズム・シフト』の? やばいじゃん……」
クラスメイトたちが呆気に取られる中、チャイムが鳴り、休み時間になると、案の定、レヴィの席の周りには人だかりができた。
「レヴィちゃんすげー!」
「レヴィさまー!」
黄色い声をあげて質問攻めにするクラスメイトたち。
「今の、どういう意味?」
「ねえ、シリウスってどんなとこなの?」
一人の生徒が、少し意地悪な笑みを浮かべて尋ねる。
「でも、交換留学生がそんな軍事機密みたいなこと、ぺらぺら喋っちゃっていいわけ?」
その言葉に、教室の空気が一瞬凍りつく。
だが、レヴィは動じなかった。彼女は、その生徒を真っ直ぐに見つめ返すと、悪戯っぽく微笑んで見せた。
「あら、今の、機密だったかしら?
私にとっては、教科書の最初のページに書いてあるような、常識だったから、うっかりしてたわ」
その切り返しに、教室は、感嘆と笑いに包まれた。
すごい。何もかもが、自分とは違う。遠い世界の光だ。
無意識に握りしめた拳の、爪が食い込む
ノートの片隅に描いた、暇つぶしの『落書き』が、急に色褪せた、子供っぽいものに見えた。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
玄関のドアが閉まる重い音と共に、学校での喧騒が嘘のように遠ざかり、完全な静寂がレヴィを包んだ。
昼間の快活な転校生の顔は、もうそこにはない。
無表情のまま、彼女はリビングのソファに学生カバンを放り投げると、部屋の隅にある小さなコンソールへと向かう。
指紋認証。網膜スキャン。
幾重にもかけられたセキュリティを、彼女は慣れた手つきで解除していく。
スクリーンに、無機質なテキスト入力画面だけが表示された。
【状況報告:Day 4】
対象:野宮リリコ(コード:BRK-0)確認。
非公認レースにて、プリズム・ゼロの予備データと一致する、異常なエネルギー波形を観測。
しかし、対象の現行動に自覚の兆候は見られず。人格分析は、意図的な抑制、あるいは記憶ロックの可能性を示唆。
結論:監視を継続。より高度な近接観測を要請する。
……彼女は、単なるターゲットではない。
送信完了の表示を確認すると、彼女は深く、深くため息をつき、その場に崩れるようにソファに倒れ込んだ。
机の上に無造作に置かれた学生カバンから、昼間の喧騒の残り香が微かに漂う。
その隣では、折りたたみ式の薄型データパッドが、冷たい動作ランプの光を静かに明滅させていた。
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