第2話 臆病貴族

シーツの要塞から引きずり出されたライは、専属メイドであるメリナの手によって、着替えをさせられていた。


「ら、ライ様、腕をお上げください。袖が通りませんので」

「ひっ! わ、わかっている!」


メリナが背後に立つだけで、ライの肩は恐怖に震える。

いつ背中を刺されるかと、気が気ではなかった。

彼女が朝の身支度用に差し出す豪奢な服に袖を通す際も、まるで毒蛇に触れるかのように、おそるおそるだ。


「……」

「な、なんだその目は! 何か言いたいことでもあるのか!」

「いえ、滅相もございません。ただ、ネクタイが少し曲がっておりますので、直させていただきたく」

「さ、触るな! 自分でやる!」


ライは慌てて鏡の前でネクタイを締め直すが、恐怖で震える手ではまともに結べるはずもなく、かえってみっともない形になってしまった。

終始、主の異常な怯えっぷりを不思議に思いながらも、メリナはプロのメイドとして淡々と、しかしどこか心配そうな眼差しで仕事をこなすのだった。




* * *




なんとか身支度を終え、食堂へと向かう。

長い廊下を歩く道すがら、掃除をしていた他の使用人とすれ違う。


「おはようございます、ライ様」

「ひいぃっ!」


ライは使用人の挨拶に短い悲鳴を上げると、壁際にへばりついて息を殺した。

使用人たちは、奇妙なものを見る目で主の姿を訝しげに見送り、そそくさとその場を去っていく。


(だめだ…全員が俺を殺す機会を窺っているように見える!)


食堂に到着すると、そこには銀色の髪をきっちりと撫でつけ、背筋を伸ばして控える厳格な老執事、ジョンソンの姿があった。ナハガルト家に長年仕える忠臣だ。

その姿を認めた瞬間、ライの足は床に縫い付けられたように動かなくなる。


(ジョ、ジョンソン!)


前世の記憶が蘇る。

ライは彼の苦言を疎ましく思い、些細なミスをあげつらって、最終的には無理やり引退に追い込んだのだ。


「おはようございます、ライ様」


ジョンソンの低く、落ち着いた声が食堂に響く。

しかし、今のライにはその声が地獄の底から響く怨嗟の声に聞こえた。

ライには、その鋭い視線が、自分への消えぬ恨みを雄弁に語っているように感じられたのだ。


「お、おはよう…」


蚊の鳴くような声で返事をするのが精一杯だった。


席に着くと、すぐに豪華な朝食が運ばれてくる。

焼きたてのパンの香ばしい匂い、新鮮な野菜が彩るサラダ、こんがりと焼かれたジューシーなソーセージ、そして湯気の立つ温かいコンソメスープ。

しかし、その光景は、ライの脳裏に処刑台での記憶を呼び覚ました。


(何日も…何も食えなかった…飲めたのは、雨水だけだった…)


その記憶が、目の前の食事を素直に受け入れることを拒否させる。

さらに、ライの頭をよぎったのは、より現実的な恐怖だった。


(毒殺…!)


前世の彼は、敵しか作ってこなかった。

恨みを持つ誰かが、この食事に毒を盛っていても何ら不思議はない!

ライはそんな妄想に憑りつかれていた。


(処刑台で死ぬのも、毒で死ぬのも、等しく「死」だ。絶対に避けなければ…!)


ライは、運ばれてきたスープの皿を前に、スプーンを持ったまま完全に固まってしまった。

スプーンに映る自分の顔は青ざめ、額には脂汗が滲んでいる。


「……」


彼はまず、犬のように鼻を近づけ、スープの匂いをクンクンと嗅いだ。

次に、皿を恐る恐る持ち上げ、液体が不自然に揺れたり、色が分離したりしないかを確認する。

その挙動不審な行動に、控えていたメリナとジョンソンは静かに顔を見合わせた。


(ジョンソンさん、ライ様のご様子が…)

(うむ…何かお気に召さないことでもあったのだろうか)


ライは意を決し、震える手でスプーンをスープに浸した。

しかし、それを口に運ぶ勇気がどうしても出ない。


この一口が、自分の命を奪うかもしれない。その恐怖が、彼の手を完全に石化させていた。

見かねたメリナが、心配そうに声をかける。


「ライ様、スープが冷めてしまいますが…もしや、お口に合いませんでしたか?」

「うぇっ!?」


メリナの声に心臓が跳ね上がる。


「い、いや! そんなことはない! 滅相もない! とても美味しそうだ!」


まずい! 機嫌を損ねたと思われたら、何をされるかわからない! 何か言い訳をしなければ…!

パニックになったライの頭に、前世で暇つぶしに読んだ歴史書の一節が閃光のように浮かんだ。

昔の王侯貴族が行っていたという、最も確実な安全確認の方法。


彼は、おそるおそるジョンソンの方を向いた。


「じょ、ジョンソン…」

「はっ。なんでございましょうか」

「こ、これを…その…た、食べてみては、どうだろうか?」


それは、毒見をしろという命令のつもりだった。

しかし、恐怖でか細く震える声と、相手の顔色を窺う卑屈な態度は、ジョンソンとメリナには全く違う意味に聞こえてしまった。


ジョンソンは一瞬、驚きに目を見開いた。

長年このナハガルト家に仕えてきたが、主から食事を分け与えられようとしたことなど、一度たりともない。

彼はすぐに厳格な表情を取り戻すと、深く頭を下げた。


「いえ、ライ様。そのようなお気遣いは無用でございます。それはライ様のために用意されたもの。私めがいただくわけにはまいりません」

「なっ…!?」


(断った……! やはり毒が入っていると知っているから断ったんだ! 俺が苦しみもがく様を、ここで見届けるつもりなんだ!)


ライはジョンソンの丁重な拒絶を、完璧に誤解し、ますます顔を青ざめさせる。

そして、最後の望みを託し、隣に立つメリナに皿を差し出した。


「め、メリナも…どうだ? 少し、味見とか…」

「まあ…!」


メリナは、主の優しさと解釈し、胸を打たれ、頬をわずかに赤らめた。

そして、慈愛に満ちた笑みを浮かべて首を横に振る。


「もったいないお言葉です、ライ様。ですが、これは主であるライ様が召し上がるべきものですよ。どうぞ、冷めないうちにお召し上がりください」


(こいつもかーっ!!)


二人ににこやかに断られたことで、ライの中で「この食事は完全に毒入りだ」という確信が生まれた。


「うわああああああ!」


ライは椅子をガタンと激しく鳴らして立ち上がると、叫んだ。


「きょ、今日は食欲がない! そうだ、腹の調子が悪いんだ! 失礼する!」


そして、嵐のように食堂から逃げ出してしまった。


残されたのは、豪華な朝食と、呆然と立ち尽くすメリナとジョンソンだけだった。

やがて、ジョンソンがほう、と息をつき、僅かに口元を緩めた。


「ふむ…ライ様も、少しは我々下の者のことをお考えになるようになられたのかもしれませんな」

「ええ…ですが、本当にお加減が悪いのでしょうか。心配です」


その頃、ライは自室のベッドに飛び込み、毛布を頭まで被っていた。


(あぶなかった…本気で殺されるところだった! この屋敷は敵だらけだ!)


二度目の人生、その初めての朝食は、ガタガタという歯の震えで終わった。

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