第3話 配慮と勘違い
朝食での一件――ライにとっては毒殺未遂事件――以来、彼は屋敷の中ですら落ち着いて過ごせなくなっていた。
誰かの視線を感じるたびに、それが自分への殺意や憎悪の表れではないかと疑ってしまうのだ。
(もうだめだ…部屋から一歩も出たくない…)
自室に引きこもろうと決意したライだったが、その決意は専属メイドによってあっさりと打ち砕かれた。
「ライ様、そのようなことではお身体に障ります。天気もよろしいですし、少しは外の空気を吸われた方がよろしいかと存じます」
「い、いや、俺は別に…」
「さあ、参りましょう」
メリナの穏やかで、しかし有無を言わせぬ圧力に、ライは為す術もなく部屋から連れ出される。
もちろん、一人で外に出るなど自殺行為に等しい。
ライはメリナに数歩下がった位置で護衛(という名の監視)をしてもらうことで、なんとか外出の合意を取り付けた。
廊下を歩きながらも、ライの警戒心は解けない。
すれ違う使用人一人ひとりの顔色を窺い、眉間に少しでも皺が寄っている者を見つけるや否や、
「ひぃっ!」
と壁に張り付いてやり過ごす。
使用人たちは、主の見慣れない奇行に戸惑いながらも、恐縮して道を開けるばかりだった。
ライはただ、彼らの機嫌を少しでも損ねて恨みを買うことを、心の底から恐れているだけなのであるが…
庭園に出ると、色とりどりの花が咲き誇る美しい光景が広がっていた。しかし、ライの目に飛び込んできたのは、その美しさではなかった。
一人の年老いた庭師が、かつてライが「俺専用」と定めていた深紅の薔薇を手入れしている。
(あ、あの爺さんは…!)
前世の記憶が、雷に打たれたように蘇った。
少年時代のライは、この庭師がほんの少し手入れを間違え、薔薇の花びらを一枚傷つけたというだけで激しく罵倒し、その場で鞭を打ったことがある。
その結果、庭師は背中に大きな傷を負い、以来、ライを避けるようになっていた。
(お、俺を…深く恨んでいるに違いない…!)
庭師の手には、鋭く光る剪定ばさみが握られている。
あれでいつ襲いかかってきてもおかしくない。
ライの背筋を冷たい汗が伝った。
「め、メリナ! 戻るぞ!」
「え? ライ様、いかがなさいました?」
「いいから戻るんだ!」
ライは踵を返し、一目散に屋敷へ引き返そうとした。
しかし、その声に庭師がこちらに気づき、慌てて作業の手を止めて深く頭を下げた。
「ラ、ライ様…」
まずい。気づかれた。もう逃げられない。
ライは観念し、どうすればこの老人の積年の怒りを鎮められるか、必死に頭を脳細胞が焼き切れる勢いで回転させた。
ライは、庭師から可能な限り距離を取りながら、震える声で言葉を絞り出した。
「い、いつも…ご苦労…」
「は、ははっ! もったいないお言葉にございます!」
庭師はさらに深く頭を下げる。ライは彼の背中に刻まれたであろう傷跡を幻視し、さらに恐怖に駆られた。
次に、庭師が手入れしている薔薇に目を向ける。
前世の自分が異常なまでに執着していた薔薇だ。これを褒めれば、機嫌が良くなるかもしれない。
しかし、下手に褒めて「手入れがなってない」などと、あらぬ勘違いをされても困る。
悩みに悩んだ末、ライは口走った。
「そ、その薔薇は…もう…いい」
「え?」
庭師が、怪訝そうな顔でライを見上げる。
ライの意図は、こうだ。
もう自分はその薔薇に執着しない。だから自由に手入れしてくれて構わない。どうかお願いだから、私を恨まないでくれ~という、ほとんど命乞いに近いものだった。
しかし、その言葉を聞いた庭師は、全く違う意味に受け取った。
彼は、ライが自分の背中の傷を気遣い、「お前にとって辛い記憶を思い出させるであろう、この薔薇の手入れは、もうしなくていいのだぞ」と、配慮してくれたのだと解釈したのだ。
庭師は、ぶるりと肩を震わせると、目に涙を浮かべた。
「ラ、ライ様…! なんという…なんというもったいないお言葉にございますか…!」
彼はその場に膝をつきそうな勢いで、深く、深く頭を下げた。
「へ?」
(な、なんだ!? なんで泣きそうなんだ!? 俺、何か地雷を踏んだか!?)
庭師の反応が全く理解できず、パニックになったライは叫んだ。
「じゃ、じゃあな!」
その場を逃げるように走り去る。
* * *
屋敷に戻る途中、厨房の近くを通りかかった際、中から料理人たちの話し声が聞こえてきた。
「なあ、今度の晩餐会、メインは『黒曜鶏のフォアグラ詰め』でどうだろう?」
「おお、それはいいな。ライ様もきっと気に入だろう」
その料理名を聞いた瞬間、ライは足を止めた。
『黒曜鶏のフォアグラ詰め』。
間違いない。前世で食べた際、原因不明のひどい発疹が出て、激怒した自分が料理人たちを全員解雇するきっかけとなった、いわくつきの料理だ。
(わからないが、とにかくあの料理がまた食卓に出されたら、また同じことになるかもしれない!)
先手を打って、この料理をメニューから外させなければ。
ライは厨房の扉をほんの少しだけ開け、隙間から中に向かって、しかし誰にも姿を見られないように小声で伝えた。
「お、おい! 『黒曜鶏のフォアグラ詰め』は…作るな…!」
そして、返事も聞かずに走り去った。
厨房内では、突然の領主の言葉に料理人たちが顔を見合わせ、静まり返る。
「…ライ様?」
「どういうことだ…?」
すると、一人の若い料理人がハッと気づいたように手を打った。
「わかったぞ! 『黒曜鶏のフォアグラ詰め』は、高価な食材をいくつも使って、しかも調理に時間もかかる、一番手間のかかる料理だ!」
「…ということは?」
「ライ様は、俺たちの負担を減らすために、わざわざ言いに来てくださったんだ!」
「「「おお……!」」」
厨房内に、静かで、しかし熱い感動が広がった。
「ライ様は、俺たちのことを見ていてくださるんだ!」
* * *
一方その頃、ライは自室のベッドに倒れ込み、大きく息をついていた。
「はぁはぁ…これで、庭師と料理人たちの恨みは回避できた…はずだ…」
勘違いの連鎖は、ライの知らないところで、使用人たちの彼に対する評価を静かに、しかし着実に変え始めていた。
疲労困憊の臆病貴族は、もちろんそのことに気づく由もなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。