公開処刑中に死に戻りした極悪貴族、最強のくせに超ビビりな陰キャになってしまう
田の中の田中
第1話 処刑台から少年時代へ
意識の混濁の中、ライ・ナハガルトは己が置かれた惨めな状況を認識していた。
手足は錆びた枷で処刑台の柱に固く固定され、身に纏うものは一切ない。
数日間、飲まず食わずで放置された身体は見る影もなく痩せこけ、全身には民衆が投げつけた石による無数の痣や、抵抗した際に刻まれた切り傷が醜くこびりついている。
眼下には、彼を罵り、嘲笑する人間の海が広がっていた。
「殺せ!」
「極悪貴族ナハガルトめ!」
「地獄に落ちろ!」
憎悪に満ちた声が、容赦なく突き刺さる。
かつて己が才能をひけらかし、虫けらのように踏みつけにしてきた者たちの顔。
空腹と渇き、そして何より魂を削るような屈辱で、もはや声を発する力も残っていなかった。
(なぜ、俺がこんな目に…)
霞む意識の中、ライの頭の中で走馬灯のように過去が駆け巡る。
ライ・ナハガルト。
剣と魔法、その双方において比類なき才能を持って生まれた男。
生まれて間もない頃に流行り病で両親を亡くすも、幼い頃から神童と呼ばれ、誰もがその未来を疑わなかった。
ライ自身、この力があれば、何でも手に入ると思っていた。
美しい娘を見れば、力ずくで妾にした。逆らう者は、その家族ごと社会から抹殺した。
気に入らない平民がいれば、魔法で痛めつけ、その悲鳴を聞きながらにワインを嗜んだ。
金が欲しくなれば、奴隷商に手を染め、人の命を平然と売り買いした。
ライは選ばれた人間なのだと確信を持っていた。
才能のない愚民どもは、自身にひざまずき、搾取されるために存在しているのだと本気で信じていた。
だが、ライの悪行は長くは続かなかった。
ある日、ライの増長に耐えかねた王国中の有力貴族が結託し、ナハガルト辺境伯領に攻め込んできたのだ。
激戦の末、ライは捕縛された。そして今、公開処刑という形式で処罰されるところであった。
ライの目の前で、処刑執行人が巨大な断頭斧をゆっくりと持ち上げた。
太陽の光を反射して鈍く輝く刃が、ライの虚ろな目に映る。
死の恐怖が、麻痺しかけていた感覚を無理やり呼び覚ました。
(嫌だ…死にたくない…!こんな、こんな終わり方は嫌だ!)
微かな抵抗は、枷がガチャリと虚しい音を立てるだけ。
執行人が斧を振りかぶる。民衆の歓声が地鳴りのように響き渡った。
ライは、迫りくる死の影に固く目を閉じた。
* * *
振り下ろされるであろう刃の衝撃を、ただ待つ。
一秒、二秒、十秒。
しかし、いつまで経っても首筋を断ち切る鋭い痛みは訪れなかった。
代わりに身体を包み込むのは、硬く冷たい処刑台の木材ではなく、ふかふかと柔らかなシーツの感触だった。
鼻孔をくすぐるのは、民衆の汗と血と埃が混じった悪臭ではなく、微かに香る高級な石鹸の匂い。
(…なんだ?)
恐る恐る目を開けると、そこに広がっていたのは、見慣れた自室の豪奢な天蓋だった。
窓から差し込む朝日は暖かく、小鳥のさえずりさえ聞こえてくる。
「夢…か?」
呟き、ライはゆっくりと身体を起こした。
視界に入った自分の腕に、息を呑む。
痩せこけていたはずの身体には、鍛え抜かれた若々しい筋肉がついており、全身にあったはずの無数の傷は跡形もなく消えている。
慌ててベッドから降り、傍らの姿見の前に立つ。
そこに映っていたのは、処刑台にいた見る影もない男ではない。
まだその悪名が王国中に轟く前の、生意気で、しかし健康的な輝きを放つ15歳の自分の姿だった。
「若い…? これは、い、一体…?」
自分の手のひらを見つめる。
若く、傷一つない、力に満ちたその手。
処刑される直前の記憶は、あまりにも鮮明だ。
あの屈辱も、痛みも、恐怖も、決して夢などではない。
(まさか…戻ったのか?処刑される、前の時間に)
死に戻り。
信じがたい現象に、しかし、現実として彼の精神にこびりついた処刑の記憶が、それを肯定していた。
死を回避できた安堵よりも、処刑台で味わった屈辱と恐怖が、ライの精神を支配した。
民衆の憎悪の目。
身体に投げつけられた石や汚物。
喉が張り裂けそうになる飢えと渇きの苦しみ。
そしてなにより、無力なまま死を待つしかなかった、あの絶望感。
それらが強烈なトラウマとなり、彼の傲慢だったプライドを根こそぎ粉砕していく。
「う…あ…」
ライはベッドの上で膝を抱え、カタカタと震え始めた。
「もう…あんな思いはしたくない…処刑されるのは、絶対に嫌だ…!」
そのためにはどうすればいい?
答えは、驚くほど単純だった。
「そうだ…誰からも、恨まれなければいいんだ…」
かつての彼ならば一笑に付したであろう、臆病で卑屈な考え。
「目立たなければいい。息を潜めて、誰にも関わらず、ひっそりと…石ころみたいに生きていこう…」
それが、今の彼の唯一の行動指針となった。
その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音が響き、ゆっくりと部屋の扉が開かれる。
入ってきたのは、彼の専属メイドであるメリナだった。
前世の記憶が蘇る。
ライはこのメリナに対しても、些細なことで罵倒し、理不尽な命令を繰り返し、彼女が淹れた紅茶が少しぬるいというだけで、その熱い紅茶をその手にぶちまけたことさえあった。
メリナの姿を認識した瞬間、ライの身体はビクッと大きく跳ねた。
(こいつは、俺を恨んでいるに違いない!)
いつか突然、自分に牙を剥くかもしれない。
その恐怖がライを支配する。
「おはようございます、ライ様。よくお休みになられましたか?」
メリナの穏やかな声ですら、ライには処刑を宣告する冷たい響きに聞こえた。
彼はメリナからサッと視線を逸らし、シーツを頭まで被ってベッドの隅でさらに小さくなる。
「……?」
メリナは、主の奇妙な行動に首を傾げた。
いつもなら、朝の挨拶など無視するか、不機嫌そうに「ああ」とだけ返すはずなのに。
「ライ様? どうかなさいましたか、お着替えの準備ができておりますが」
メリナが一歩、ベッドに近づく。
カツン。
その足音が、処刑台の階段を上る執行人の足音と重なった。
「ひっ!」
ライは短い悲鳴を上げ、シーツの中でさらに体を丸めた。
「ラ、ライ様!?」
主の異常な怯えように、メリナの困惑は深まるばかりだ。
一方、シーツにこもったライは、必死に思考を巡らせていた。
(ど、どうすれば…! どうすればこのメイドの機嫌を損ねずに済む? どうすれば恨まれずに済むんだ!? なにか気に障ることはしただろうか!? 何か不満はないか!? わからない、わからない!)
こうして、剣と魔法の比類なき才能を内に秘めたまま、自己肯定感が地の底まで落ちた超ビビりな陰キャ貴族として、ライ・ナハガルトの二度目の人生は、静かに幕を開けたのだった。
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