断章「遠い夜に咲いた花」

piman

遠い夜に咲いた花

それは、うだるような暑さの季節のこと。

仕事を終え、夕飯もひとしきり食べ終えた頃だった。

窓の外から、ドン、と夜を揺らすような音が響いた。

ふと外を覗くと、夜空に大輪の花が咲き誇っていた。


——そうか、もうそんな季節か。


リモートワークが少しずつ定着してきた頃だったから、ずっと家に居た今日が花火大会だということも、すっかり忘れていた。


「そういえば、通行止めの案内が回ってきていたっけ」


そんな断片的な記憶が、ぼんやりと頭をかすめた。


一つ、また一つと花火が夜空を彩るたびに、周囲の歓声や笑い声が響く。

その光や音は一瞬で霧散していく。まるですべてが儚い夏の夜の夢のように。


ビールを片手にベランダに降り立った私は、そんなことを思いながら目の前の光景をどこか遠い目で眺めていた。

まばたきのたびに閃光の残像がつながり、胸の奥で一つの情景が輪郭を持ちはじめる。


———


——たしか、あの年は浴衣を着て、駅で彼女と待ち合わせをしたような気がする。

時間より早く着いてしまった僕は、人混みの中から彼女が来ていないかと、無意識に目で追っていた。

待ち合わせの人たち皆がそわそわとどこか落ち着かない様子で、不安と期待が入り混じる空気が流れていた。


待ち合わせ時間が近づくにつれて、時計の秒針がどんどん遅くなっていく感じがして、早く時間になれと、何度も時計を見返していた。

そして、ちょうど時間になった頃、駅に現れた彼女。

人波が押し寄せるなか、不思議と彼女の姿だけはすぐ目に飛び込んできたような気がした。


合流した彼女も浴衣姿だった。

「似合ってるね」

「かわいいよ」

なんて言葉を交わしては、お互いちょっとだけ照れくさくなって笑った。


駅から続く道を二人で歩き、着いた先の会場に並ぶたくさんの屋台の明かりに思わず心が躍った。

普段は見かけない光景に無邪気にはしゃぐ彼女は、急かすように僕の手を取って歩き回った。

いつの間にか両手は紙皿や串でいっぱいで、子どものように頬張っては目を輝かせる。

「美味しー!」

「ねえ、これ食べてみて」

ころころ変わる表情が可笑しくて、愛おしくて——その横顔を、ただ見ていた。


やがて空も暗くなり、ふいに、ドン、と大きな音が響いた。

見上げれば夜空に藍色の大輪の花。

手にしていた食べ物もなくなっていて、気がつけば、また自然と手を繋いでいた。


もっと近くで見てみようと、人混みの中をはぐれないようにと手を強く握り合いながら歩いた。

打ち上げ場所に近づくほど、音の波が胸にまで響いてきた。

その振動はどこか心地がよかった。


空に一つ、また一つと多くの花たちが咲き乱れる。

その光を背に、君がふいに振り返る。


藍地の浴衣に、山吹色の帯。

結い上げた髪に添えられた、小さな向日葵の花飾りがかすかに揺れて——


「来れてよかったね!」


弾けるような笑顔に重なるように、夜空に咲いたのは、一輪の向日葵のような大輪の光。

その光は、彼女の笑顔を淡い金色に染め上げた。


僕の目は、その光に照らされた君の笑顔に奪われた。

空に花火が咲いていたことすら、一瞬、忘れてしまうほどに。


その奇跡に背中を押されたのか、ふいに口から漏れた「好きだよ」の四文字。


「え、なにか言った?」

「……ううん、なんでもないよ」

「そっか。きれいだね、花火」


見上げる君の瞳に映っていたのは、夜空の花火だったかもしれない。

でも、僕の目に映っていたのは、花火よりも綺麗に見えた、君の横顔だった。


だから「そうだね」と返したその言葉は、君の横顔に向けて放った言葉だったんだ。


———


一際大きな花火が打ち上がったのか、その音が私を再びベランダに立たせていた。


……君と花火を並んで見た記憶など、私には一度もなかった。

あったのは、君の住む町で上がっていた花火の音を、電話越しに一緒に聞いたあの夜だけ。


君の笑顔が脳裏をかすめたとき、「また、どこかで」というささやかな願いが、この心のどこかで探し続けていたからこそ、こんな夢のような情景を描いてしまったのだろう。


君のように、また誰かと笑い合える日が来たのなら———


夜空に咲いた藍の花は、今も胸のどこかに残る、言葉にできなかった想いすらも包んでくれた気がした。


そんな想いを胸に、まだ鳴り続ける花火の音を背に、私はそっと部屋へと戻った。

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断章「遠い夜に咲いた花」 piman @piman22

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