第2話 再会

 それは、ある夜中のことだった。


 貴弘が独り暮らしの自室で眠っていると、かすかな泣き声が聞こえてきた。

 はじめは、隣室の男が彼女でも泣かせているのかと思った。

 が、その泣き声は、女にしては低いような気がした。

 男が泣いているのか……映画でも見て感動したのか?

 そんな風に考えたが、次の瞬間、緊張が走った。

 泣き声は壁の向こうではなくこちら側、つまり、この部屋の中で聞こえていたのだった。


「まじか……」


 貴弘は刑事だ。

 仕事柄、死んだ人間と接する機会は多々ある。

 けれど、こうして出てこられるのは初めてだった。

 なんで俺なんだ、と貴弘は考えた。

 これまでの仕事を思い返しても、個人的に化けて出られるような覚えはない。

 貴弘が部屋の明かりを点けると、声はふつっと、嘘のようにやんだ。


「気のせいか……疲れ溜まってんのかな」


 ところが次の夜も、その次の夜も泣き声は聞こえて、明かりを点けると消えた。

 こんなことが三日も続けば、さすがに気のせいでは済まされない。

 薄気味悪くて、ひとりでいるのが心細くなった。

 山内に電話してみようか――そう考えて携帯電話に手を伸ばしたとき、貴弘の身体が硬直した。

 金縛りだ。


「誰も、呼ばないで」


 耳元でそう囁かれた。

 まるで息がかかるほど近かった。

 貴弘は、恐怖に息を飲んだ。


「お願いだから……たーちゃんと二人きりがいいから」


 ――たーちゃん?


 身動きの取れない体で、貴弘が目を見張った。

 俺をその呼び方で呼ぶのは、後にも先にもアイツしかいない――


 故郷の高校で一緒だった同級生。

 いつの間にか仲良くなって、いつも一緒にいた。

 けれど卒業してからの進路はお互い別々で、連絡を取り合うこともなくなった。

 特に貴弘が今の仕事に就いてからは、忙しさもあり、実家でさえ滅多に帰らない。

 誰に限らず、貴弘は、地元の友人に会うこと自体がなくなっていた。

 故郷では同窓会も何度か催されたようだが、貴弘は一度も顔を出したことがなかった。


「ね……頼むから」


 か細いその声に、貴弘は恐る恐る呼びかけてみた。


「わた……る……?」


 その途端、貴弘の胸に相手の思念が濁流のように流れ込んだ。

 ――冷たい

 ――暗い

 ――苦しい

 ――悲しい

 その凄まじいまでの思いの強さに、貴弘はおののいた。

 それは人ひとりが抱えきれる量をはるかに越えていて、貴弘は胸が潰されるかと思った。

 そして、それまでは声だけだったものに、ある気配が加わった。

 後ろにいる――貴弘はそう確信した。


「たーちゃん……俺のこと、覚えてくれてたんだね」


 声が、泣き出しそうに震えた。

 貴弘の体は、既にかたかたと震えがきていた。

 芯からゾクゾクと寒気がして、とにかく怖くて怖くて仕方がなかった。


「たーちゃん、俺を見て」

「航、でも……」

「たーちゃん、お願い」


 貴弘は最初、首だけひねって振り向こうとしたら、思うように動けなかった。

 まだ痺れている背中をひねると、どうにか動いた。

 貴弘はゆっくりと、体ごと後ろを向いた。


「たーちゃん……」


 航だった。

 透けてもいない、手も足もある。

 どう見ても生きた人間が普通にそこにいるとしか思えなかった。

 そうじゃないことは、この状況から考えて明らかなのだけれど。


 航は、貴弘の思い出の中の姿よりも大人びていた。

 あの頃と変わらないのは、その澄んだ目だ。

 そう、その目でいつも、航は笑いかけてくれた。

 そんな航が今、貴弘を見て儚げに微笑んでいた。

「ごめんね、たーちゃん……怖いよね? 怖がらせるつもりなんかないんだけど……ごめん」

 航は悲しそうに、そう言って貴弘に謝った。

「航、おまえ……」


 ――死んだのか?


 喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。


「航……今どこにいるの?」

「俺にもはっきりわかんないんだ……でも、すごく冷たい水の中。暗くて、寒いよ」

「誰かにそこへ連れてかれたのか?」

「そうだね……俺、逃げようとしたんだけど、追いつかれて……」


 航の話を聞くと、それは通り魔による犯行だった。

 「被害者は俺だけじゃないよ。ほかにも……」

 航は顔を歪めながらも、できるかぎり詳しく話そうとした。

 思い出すのもつらいだろう。貴弘の胸も痛んだ。


「航が……まさか、そんな……」

「たーちゃん、お願い……俺を見つけて。俺、最後はたーちゃんに見つけてほしい」


 航は、縋るように貴弘を見つめた。

 そして、ふとうつむいて、ためらいながら口をひらいた。


「今まで絶対ナイショにしてたけど……俺ね、たーちゃんのこと、ずっと好きだったんだよ」


 航は、「ごめんね」とまた謝った。

 一生言わないつもりだったけど、その一生が終わっちゃったから言っちゃった――と、航は笑顔を作った。


「航」


 貴弘に呼ばれて、うつむいた顔を航が上げた。

 そうしたのと、貴弘が航を抱き寄せたのとが同時だった。

 抱きしめた航の体の冷たさに、貴弘は一瞬ひるんだが、すぐにぎゅっと力を入れ直した。

「俺も同じ」

 貴弘の言葉を、航は聞き間違えたと思ったのか、「同じ?」と繰り返した。

 貴弘は航をこちらに向かせると、航の顔を見て言った。


「俺も航が好きだった……ごめん、航」


 貴弘もまた、「ごめん」と口にしていた。

 自分たちは何に対して謝っているのか、航にも貴弘にも、わからなかった。

 言わなかったことに対してか、それを今になって言ったことに対してか……そもそも好きになったことに対してか。


「たーちゃん……ほんとに?」

「ほんとに。でも俺も、絶対言わないって決めてたから……」


 叶わない恋だと、お互いがそう思い込んでいた。

 連絡を絶ったのも、諦めるためだった。

 言えばよかったのにと、他人は無責任に言うかもしれない。

 けれど、相手の穏やかな日常を壊してまで、自分の思いをぶつける気にはなれなかった。

 それが、どうだ。

 こんなことになるなら、あのとき――そんな後悔を今してみても、どうしようもない。


「待ってろ、航。おまえは俺が助ける。絶対、助けるから」


 見つけるではなく、助けると言ったのは、無意識だった。

 抱きしめられた航は、息と一緒に小さな笑い声を漏らして、

「たーちゃん、どうしよ……俺、今死ぬほど幸せ」

 と言った。


 ――死んでるんだけどね、もう


 そうおどけて航は、うれしそうに寂しそうに、笑った。


 

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