第3話 昇天

 それから数か月たって、わたるはあの池で見つかった。

 そのときの光景は貴弘の目に今も焼き付いている。


「先輩! ホトケさんが出ました!」


 四方を崖に囲まれた、澱んだ池のふち。

 鑑識の仕事を見守っていた後輩の山内が、そう言って貴弘を呼んだ。

 水温は低く、一帯の空気もひんやりとしていた。

 池をさらっていたダイバーたちが、水底からつぎつぎに人骨を拾ってくる。

 骨は白くて細くて、血や肉などはなにも残っていなかった。


 その前の日、部屋で航と話したときには、翌日に見つかるとは思っていなかった。

 見つかればもう航は消えてしまうのか、それを確認するのが怖くて、ずっと聞かないままにしてきた。

 航は、その日を境に、貴弘の前に現れなくなった。


「成仏したら、幽霊になってさまようこともないかな」


 発見現場で、山内にそんなことを尋ねたのも覚えている。

 山内は、珍しく感傷的なことを言う貴弘を、意外そうに見た。

 航とは、きちんと別れを言えないままになってしまった。

 高校を卒業したときと同じ。

 過去から何も学んでいなかった自分に嫌気がさした。


 そして今日、事件の後始末を終えて、貴弘はひとりの部屋に帰りついた。

 何やかやと、すべきことが尽きなくて、すっかり遅くなった。

 航の両親も、遺骨を引き取りにきた。

 白い布で包んだ木の箱を、貴弘が二人に手渡した。


 航の両親には、高校時代に何度か面識はあったが、彼らは貴弘に会っても気づかなかった。

 気づかないというより、頭がいっぱいで、目の前の刑事の顔なんて見えていないのかもしれない。

 両親は、どちらもやつれており、老け込んでいた。

 当然だ。

 航が行方不明になってから今まで、想像を絶する心労だっただろう。

 こんなときなのだから、泣きたいだけ泣き叫んでいいものを、航の両親は涙をこらえ、ただ静かに「お世話をお掛けいたしました」と頭を下げた。

 貴弘から骨箱を受け取るとき、母親が箱に向かって小さく「航」と呼び掛けて、大事そうに両手に抱いた。

 そうして、最後まで残っていた航の欠片かけらが、貴弘の手から離れていった。


 航を両親のもとに帰したあと、貴弘は自分の胸の中ががらんどうになったような気がした。

 警察署を出て、自宅に着くまでのあいだ、言いようのない悲しみに全身を支配されていた。

 自室に戻った貴弘は、電気も点けないまま、暗い部屋に腰を下ろした。

 さして広くもないリビング兼寝室をぐるっと見回しても、そこにはなんの変化もなかった。


 航がはじめてこの部屋に現れて以来、航は毎晩、貴弘の元へやってきた。

 冷たい体を抱きしめてやると、航は貴弘の腕の中で気持ちよさそうにした。

 けれど、しばらく抱いていると、航の冷たさに今度は貴弘が凍えそうになった。

 心配した航が貴弘から離れようとすると、貴弘は引き留めた。


「いいよ、離れなくて」

「でもたーちゃんが……」

「じゃあ、こうしよう」


 貴弘は航を毛布でくるみ、その上から腕に抱いた。

 そうすれば、毛布の上からではあるけれど、航にずっと触れていられた。


「航、寒い? 待ってろよ、もうちょっとだから」

「うん……ありがとう」


 そんな夜が何日続いていたのだろう。

 あるときキスをしたら、航は口の中まで冷たかった。


「航、カキ氷食べてるみたい」

「たーちゃんの舌はあったかいね」


 こんな夜がいっそ何日も続けばいい、なんて――

 航も思ったりしただろうか。


 懸命な捜査の末に、貴弘たちはあの池にたどり着いた。

 行方知れずだった航があの池で見つかって、航は家族のもとへ帰っていった。

 これでホトケさんも成仏できますねと言った山内の、屈託のない明るい笑顔を、貴弘は思い返した。


「よかったな……航」


 貴弘の頬を涙がひとつ伝った。

 航と約束した通り、貴弘は航を見つけた。

 航はやっと、家族のところへ帰ることができたのだ。

 そして、航は空へのぼっていく。

 会ってさよならを言えなかったのは残念だけれど、それは、もういい。

 航が今、安らかなら、それで――

 だけど――

 でも――


 貴弘の顔が苦痛で歪んだ。

 身を切られるようにつらかった。

 もう航に会えない寂しさが押し寄せて、貴弘は両手で顔を覆った。

 声を絞り出すように、「航」と名前を呼んだ。

 会いたい。

 会いたい。

 おまえに会いたい。


 会いたいよ、航――


 しばらくのあいだ、声を出して泣いた。

 航は死んだ。死んでしまった。

 犯人は逮捕したけれど、航が生き返るわけじゃない。

 航は死んだのに、そいつは生きている。

 そんな納得のいかないことってあるだろうか。

 ひとしきり泣いたあと、ゆっくりと顔を上げて、貴弘は何もない空間につぶやいた。


「やっぱり、殺そう」


 貴弘の暗い声に、部屋が急に冷えたように感じられた。

 犯人は、やっぱり俺が殺そう。

 貴弘は暗い空間につぶやき続けた。

 航は死んだのに、そいつが生きているのはおかしい。

 「だから、殺さないと」

 そのとき、貴弘の肩にひやりと冷たいものが触れた。

 貴弘が、はっとしてまわりを見る。

 肩に触れた冷気は、やがてためらいがちに少しずつ、貴弘の体を包んでいった。


「航……?」


 冷気は貴弘の問いに答えず、貴弘に纏いついたまま、じっとしていた。

 凍るような冷気は貴弘の体温を次第に奪い、貴弘の吐息が白く変わって、貴弘は小さく震え始めた。


「たーちゃん……」


 いつのまにか、航がいた。

 航は貴弘の背中に腕を回し、貴弘を抱きしめていた。

 「だめだよ、たーちゃん……そんなこと考えちゃだめだ」

 航も泣いていた。

 そんなこと考えるたーちゃんを置いていけない――航は泣きながら、そう訴えた。

「俺もたーちゃんと離れるのは嫌だ……天国なんか行かないで、たーちゃんのそばに、ずっと一緒にいたいよ」


 叶わない願いだと、お互いが思い込んでいた。

 生きている者と、死んだ者。

 諦めなさいと、他人は無責任に言うかもしれない。

 だけど――それが、どうした?

 こんなことになるなら、あのとき――そんな後悔は、もう、二度としたくない。


「行くなよ」


 貴弘が航を、かじかむ腕で力いっぱい抱き返した。

 航をつなぎ止めるように、貴弘は力を込めた。


「あの世になんか行くな。ここにいろ」

「たーちゃん……何言ってんの」

「航はずっと俺と一緒にいればいい」

「たーちゃん……俺、本気にするよ?」

「好きだ」


 貴弘の声に涙が混じった。


「航が好きだ。航をどこにも――」


 もう、どこにも行かせない。

 狂おしく込み上げる感情のままに、その場で二人抱き合った。


 航は、貴弘の名前を何度も呼んだ。

 呼ばれるたびに、貴弘が航の額や頬に口づけた。

「たーちゃんも、どこにも行かないでよ」

「行かないよ、どこにも」

「あいつを殺したりなんか、絶対にしないで」

「わかってる。しない。航といられなくなるようなことは、しないから」

「絶対だよ。約束だからね、たーちゃん」

 キスで口をふさいだら、やはり氷みたいだった。


 どんなに色づいても、一向に温度を上げない航の体が、貴弘は不思議だった。

 指を入れると、航がたまらず声を出した。

 航は中まで冷たくて、積もった雪に指を突っ込んだようだった。

 航の息遣いが貴弘を刺激する。

 どれほど甘い声で航がよがっても、その体温だけは真冬の冷気のようだった。

 やがて貴弘が先端をあてがった。

 航の目はこんなに熱く潤んでいるのに、貴弘を飲み込んだその中は、零下何度にも思われた。


 冷たさは、次第に感覚を麻痺させていった。

 ただ、航を抱いている、その事実だけは、胸を締めつけるほど鮮やかだった。

 航に包まれているという、その感触だけは、泣きたいほどに研ぎ澄まされていた。

「たーちゃん、平気……? 俺と、して、平気……?」

 貴弘の律動に合わせて、切なく喘ぎながら、航が貴弘に尋ねた。

「平気だよ……航は何も、心配しないで」

 貴弘が優しく笑って答えると、航が幸せそうに頷いた。


 

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