介入する世界

第1話 次なる世界へ

 アーク級次元航行艦一番艦「方舟」は、界と界のあいだ――薄い膜の重なりが光の鱗のように瞬く“狭間”に静止していた。艦内は相変わらず簡素だ。長い旅で無駄な装飾は剥がれ、残ったのは必要最低限の機能と、二人が生活の名残として置いたマグと薄いブランケットくらい。


 操艦席に腰かけたアレンは、眼前の立体投影に走るノイズを指先で払う。投影の輪郭が整い、銀青色の渦がゆっくり脈動する等高線になった。


「……界膜が鳴ってる。深層でエーテルの流れが不自然に落ち込んでるな」


 背後で端末群を操作していたカイルが、マギウスガジェットを腰のホルスターに戻しながら歩み寄る。制御卓に頬杖をつき、癖のない短髪を指でかく。


「吸われてる。自然流出じゃない。波形が均一すぎる。……“取って”る奴がいる」


「ああ。方舟の観測でこれだけはっきり出るのは久しぶりだ」


 アレンは小さく息を吐いた。画面の向こうの世界は、まだ名も知らない。けれど、エーテルの収支だけは嘘をつかない。世界が老い衰える波のリズムとは違う。秩序立った“管”が延び、世界の外へとエーテルを流し去っている。


「介入案件だろう?」カイルが言う。「自然な滅びじゃない。略奪だ」


「俺たちの主義にも、MDFの基準にも合う」


 アレンは頷き、通信系統を呼び出した。方舟は、MDFが保有するどの艦よりも“外”での通信に強い。滅んだ故郷の遺産であり、今も解析しきれない恩恵だ。だからこそ、正式なラインで先に投げるのが礼儀だ。


「呼ぶか」


「うん。……リオにな」


 リンクが開くまでの数秒、二人は無言で立体投影を見ていた。銀青の等高線は潮汐のように上下し、抜き取られる分だけ沈む。世界の息継ぎが浅くなる様が、ただの線図なのにやけに生々しく見えた。


『映っているか?』


 クリアな音声が艦橋に満ちる。映像には、MDF本部・中央管理室の硬質な照明。受像の向こうに立つ男は、制服の襟元をきっちり留め、くすんだ赤の髪を整えていた。初回の呼称は形式に従う。


『多次元統括管理防衛軍MDFのリオ・フレイムハート中央管理官だ。状況を聞く』


「アレン・ストームブレイド。こちらはカイル・ウインドフォース」アレンは短く名乗り、記録を送る。「方舟が検知した界膜の歪みだ。深層でエーテルが外へ流出している。自然流出の統計から大きく外れる波形。人工的なサイフォンと見ていい」


 カイルが補足する。「界膜の“鳴り”からして、吸い上げの配管は複数。流出は断続的にバーストしている。侵略側の搬送ラインに負荷が出てるのかも」


『確認した。……正式に言えば、MDFは“他世界からの略奪による滅び”を重大危険事象として定義している。介入判断は本部の専決だが――』


 リオは一拍置いて、モニタ外の誰かに視線を向け、それからこちらへ戻した。


『――今、稼働中の大型守護級次元航行艦「ドミニオン」が軌道に乗る。即応部隊を一個隊、私が直接率いる。方舟は前衛観測と中継、運用の自由は尊重する。……正式依頼文を送る。読んでくれ』


 艦橋に電子署名つきの文面が降りた。アレンは流し読みして、最後まで目を通す。公式文面は固いが、要は――“今MDFから回せる艦が少ない。二人の判断で適切に処置せよ。必要に応じ即応部隊が連携する”。そして、


『ここからは個人的な助言だ』


 リオの声色がほんの少しだけ柔らかくなる。若い頃に見た、前に出たがりで、でも人を巻き込まないよう自分を繋ぎ止めていた彼の気配が、言葉の端に残っていた。


『世界延命のための不自然なエネルギーの流れを観測している。……不老不死に触れる系統の技術に繋がる可能性がある。君たちにとっても無関係ではない。だからと言って危険を煽るつもりはないが、判断材料として共有しておく』


「感謝する、リオ」


『今は“中央管理官”で頼む。最初だけな』わずかに口角が上がる。『以後はリオでいい。――どうする? 受けてくれるか?』


「受ける。これは俺たちの主義にも合う。それに」


 アレンは画面の向こうの男を見据えた。かつて自分たちの背を追い、いまは指揮卓の前で世界の天秤を支える後輩。彼が投げる“正式”と“私的”の両方を、嘘のない目で受け止めたいと思った。


「放っておけない」


『了解した。ドミニオンは一時間後に界層離脱、狭間へ入る。方舟は中継ノードとして前進を。――それと、もう一人連れて行く。私の副官だ』


「副官?」


『セリス・アークリア。水属性の魔法士で、防御と攪乱の腕がいい。光の属性変換は限定的だが、通信系の補助ができる。ドミニオンと方舟の連絡線を、私の隊からも一本通しておきたい』


「頼りにする」


『こちらこそ。……アレン、カイル』


 呼び名が少しだけ旧い。師弟というには対等で、親友というには距離を知っている、その呼吸の呼び方。


『帰ってきたら、また本部でコーヒーを。中央のは薄いけどな』


「その薄いコーヒー、悪くないんだ」カイルが笑った。「じゃあ、現地で」


 通信が落ち、艦橋に狭間のざわめきだけが戻る。


「――正式依頼、受領。個人的助言も、受領」アレンが言い、椅子から立ち上がる。「行こう」


「うん」


 二人は手早く支度に入った。常用の補助魔法は、身体に染みついた習慣のように静かに起動する。薄く光が差し、衣服の上に見えないローブが重なる。安全装置――マナ・ジャケット。常時展開の基本。


 アレンは剣型のマギウスガジェットを手に取る。杖ではない。刃に見えるが、実際には“斬るための制御機構”が内側に収まっている。刃の起動は彼の意思と重なり、雷の回路はまだ眠っている。今はただの刃の形だ。


「確認。常時系はオン。非常系は保留」カイルが唱えるように呟く。「俺は風の感応を上げる。界膜の層流を追うのに使う」


「頼む」


 カイルは息を整え、足下に薄い風の輪を作る。浮揚の基本――Levitateレヴィテイト――ではない。まだ飛ぶ必要はない。感度だけを上げ、狭間の潮に耳を澄ます。風属性は情報を運ぶのに向いている。世界の“皮膚”に触れ、そこに走る微細な震えから外的な介入の角度を拾う。


「三本、太い流れ。三方向から吸ってる。どれもこの狭間を通ってるわけじゃないから、現地に降りないと細部は無理だね」


「十分だ」


 アレンは操艦席に戻り、方舟の駆動系に指示を送る。艦のエーテル炉心が低く唸り、狭間の流れを掴む。方舟は“移動”というより“場所の縫い換え”に近い動作で、指定した座標へ滑っていく。


「なあ、アレン」


「ん?」


「俺たち、こういう時ほんと淡々としてるよな」


「旅が長いからな」


「それもあるけど……救えるから動く、救えないなら見送る、って決めてるからさ。迷ってる暇があったら、風を読む」


「迷ってないわけじゃない」アレンは笑った。「ただ、決め方を決めているだけだ」


「そうだね」


 方舟は狭間の薄明かりを切り裂くように進み、やがて“近い”という感覚が艦橋に満ちた。目に見える距離の話ではない。世界と世界の距離は、たぶん目盛りを信じきってはいけない。


「到達。ここが“集合点”だ」


 その時、艦内通信が点った。短い合図音ののち、ドミニオンの識別コード。続いて、もう一本の回線が開く。時刻は協定標準、遅れなし。


『ドミニオン、界層に進入。即応部隊、第一から第三分隊、起床完了。――方舟、聞こえるか』


 落ち着いた女性の声だ。抑揚の端々に現場で鍛えられた節度がある。回線のタグに「Seris Aclea」。


「方舟、アレン。受信クリアだ。そちらは?」


『セリス・アークリア。リオ中央管理官の副官。……初めまして、ではないかもしれないが、現場では初だね。以後よろしく』


「こちらこそ」


『ドミニオンの位置は方舟から見て十度上方、距離、狭間基準で一二〇〇。視認は難しいけど、リンクは良好。これから私が“光”を送る。方舟の通信系はそれを拾って、こちらのサブルートに繋いでほしい』


「了解」


 アレンが開いた回線に、微細な光の粒が流れ込む。光属性の限定的な変換で作る通信ビーコン――それがセリスの“もう一つの手”。数式と儀式の中間のようなコードが、方舟の古い装置の間を滑っていく。互換性がないはずの機器同士を、光の律動が“出会わせる”。


『接続、確認。――リオ、入れるよ』


『ああ、助かる』


 声が重なり、次いで映像が開いた。リオはドミニオンの管制室にいた。方舟の艦橋よりずっと広い。背後には、隊員たちが忙しく走り回る姿。大型艦の重力制御は滑らかで、揺れ一つない。


『方舟。短い合流になる。こちらは軌道保持、現地降下はしない。即応部隊は転移門で世界内に展開、まず防衛線を張る。……お前たちは――』


「頭を潰す」


『そういうことだ』


 リオの目が、ほんの少しだけ厳しくなる。


『いいか。相手は“奪うこと”を目的に動いている。交渉は通じないと見ている。目標は三系統の吸い上げラインと、その中枢。……アレン、カイル』


「聞いてる」


『お前たちの裁量で構わないが、必ず戻れ。戻って来い。ドミニオンは長居ができない。引き継ぎ先は手配するが、撤収窓は限られている』


「了解」カイルが短く答える。


『セリス、お前は私の側と前線の両方に線を伸ばせ。水は防御に回し、隊の損耗を最小限に抑える。光の跳躍は、無理をしない範囲で使え』


『了解。アーク級の“癖”にも慣れておく。方舟、しばらく同調して動いていい?』


「構わない。方舟は狭間での姿勢制御が得意だ。合わせよう」


『助かる』


 リオは短く息を吐き、視線を上げる。


『では、作戦前カウントに入る。ドミニオン、即応分隊は第一段階の展開準備。方舟、観測を維持。――行くぞ』


 短い沈黙のあと、艦内に時報が鳴る。アレンは剣を軽く持ち上げ、柄に手を当てた。雷はまだ眠っている。だが、切先に込めるべき速度と角度は、もう指先が覚えている。


「アレン」


「なんだ」


「今回は、帰ってきたら――」


「薄いコーヒーか?」


「うん。あれ、案外好きなんだ」


「わかる」


 二人の間に、小さな笑いが落ちる。


 アレンは立ち上がり、肩を回した。身体の芯に熱が灯る――熱ではない。エーテルが巡り、筋肉へと“補助”の回路が繋がっていく。声に出さずとも、術式は指先で結べる。だが今日は、あえて胸の内で言葉を踏む。


 Accelerationアクセラレーション


 加速は、彼にとって祈りに近い。速さは恐怖を殺す。届かない場所に刃を届かせる唯一の道具だ。


 カイルは二丁のガジェットを確かめる。装填もない。あるのは術式の登録と、彼自身の呼吸だけだ。風は情報を運び、空間の角を丸くする。拘束のための網はまだ張らない。彼のCaging Bindケージング・バインドは、噛むための構造だ。必要な場所でだけ噛ませる。


『カウント、十。――九、八……』


 方舟の炉心が静かに唸り、狭間の風景がわずかに歪む。遠方、巨大な影が一瞬だけ現れて消えた。ドミニオン。大型守護級は、狭間では巨体を見せない。だが、その質量と出力は、空間の手触りを確かに変える。


『三、二、一――作戦開始』


 界膜が開く直前、アレンはもう一度だけ画面を見た。銀青の等高線。そこに描かれた“管”を、頭の中で切り刻む順番に並べる。


 自然な滅びは見送る。けれど、奪われる滅びは違う。


「行こう、カイル」


「うん。風は、もう向きを覚えた」


 方舟の船体が、音もなく角度を変える。“穴”が空き、そこへ滑り込む。狭間の薄明かりが背後に遠ざかり、未知の世界の空気が艦内の計器に触れる。


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