あなたが食べてくれるまで
鹿瀬琉月
あなたが食べてくれるまで
俺と妻が結婚してから、三ヶ月。普通の夫婦なら幸福の絶頂に居るであろう時期だが、俺達は違った。
「おかえりなさいませ」
今日も甲斐甲斐しく三つ指をついて俺を出迎える妻を横目に、俺はそれを無視して家に入る。相変わらず諦めの悪いやつだ。まあ、大方あの父親に命じられてやっていることだろうが。こいつも被害者だと思えば、俺も人間だから多少の同情は覚える。とはいえこいつを付け上がらせるわけにはいかない。さっさと追い出してしまわなくてはならないのだ。そうでなくては俺も俺の会社もあの忌々しい男に全てを吸い取られ、破滅に追い込まれるに違いないのだから。
「おかえりなさいませ、旦那様」
パタパタという焦ったような足音と共に、奥から老齢の女性の声が近づいてきた。昔から世話になっている女中の声だ。
「ただいま」
こちらには短く返事を返しながら、鞄と上着を預ける。
「その、大変申し上げにくいのですが、本日も奥様がご夕食を……」
その言葉に、俺はまたかと思い、小さくため息を付いた。そのまま厨に向かい、机の上に置かれた食事に目をやる。きっちり一汁三菜が揃い、きれいに盛り付けられた食事はきっと作られた場所がここでなければ大絶賛されるに違いないのだろう。俺はそれをおもむろに手に取り、躊躇なくすべてをゴミ箱の上でひっくり返した。厨の入り口でこちらを伺っていた気配がそこを去るのを待ってから、俺はもう一度ため息を付いた。
婚姻が決まり、この家に越してきてから毎日、妻は俺に手製の夕食を作るようになった。どうにかして俺の気を引こうとした結果なのか、あの男の指示なのかは知らないが、俺はそんなものを食べる気はない。しかし、いらないから作るなと言ってもなお、妻は毎日のように夕飯を作り続けた。最初は女中に言って辞めさせようかとも思ったが、少し考え、逆にこれを利用してやることにした。毎日あいつの目に着くようなところで、夕食を捨てることにしたのだ。毎日一生懸命作った夕食が捨てられるとなれば、精神的なダメージも相当なものだろう。これだけ硬い意思だからこそ、これを辞めさせられれば、そこから離婚にまで持ち込むのはそう難しいことではないはずだ、とそう思って。
しかし、今のところ、この行為が妻に何かしらの影響を与えられているとは言い難かった。食事を作るのを辞めるでもなく、食事を捨てる俺に辞めてくれと泣きつくでもない。女中に聞いても昼間の様子にほぼ変わりは無く、憔悴しているといった様子も見られないという。想像以上に頑固なこの女にこれ以上どうしようもないというのが現状だった。
それから更に月日は流れ、結婚してから一年が経っても、妻は食事を作り続けた。
それはいつもと大して変わりのないある日のことだった。少し違ったのは大きな商談が決まったことで、これが順調に進めばあの男であってもそう簡単にうちを潰すことが出来なくなるはずだった。だからだろうか、帰った家でいつも通りに俺を出迎える妻を見て、声をかけようと思ったのは。
「おかえりなさいませ」
「ああ」
弾けるように顔を上げた妻の、まん丸に見開いた瞳を見つめるのは、存外気分が良かった。商談が順調に進んだらもう少し普通の夫婦のように過ごしてみてもいいかもしれない。そんなことを考えてしまうくらいには。
その日は女中が実家の用事で休んでいて、俺は自分で荷物を部屋に置いて、着替えを済ませた。厨を覗くといつも通り妻の作った夕食が置いてあった。相変わらずお手本のような献立の食事だ。捨てられると分かっていながら形だけの夫のために作っているのものとは到底思えない。
ふと、食べてみようか、と思った。どうせここまで頑固なのだ。これ以上食事を捨てたからといって追い出すことは出来まい。それなら、こんなに美味しそうな食事を捨てる必要は無いだろう。さっき浮かんだ「いずれ普通の夫婦のように」という言葉も、俺の思い付きを後押しした。問われたら今日は女中が休みだから仕方なくだと言えば言い訳になる。
俺はおもむろに箸に手を伸ばした。まずは一口味噌汁を飲む。美味しかった。味噌汁は家庭によって大きく差が出るというが、存外口に合う。そう考えると妻と俺の味覚は意外に似ているのかもしれない。この分なら他のものも美味しいだろう。そう思い、他の皿に手を伸ばそうとしたその時だった。
「……あれ?」
手に力が入らない。目の前がぼんやりして視界がチカチカした。ガン、と体に大きな衝撃が走り、椅子から滑り落ちたことに気がついた。体中が痺れて動けない。なんだ、これ。頭がぼんやりとして思考がまとまらない。助けを求めて視線だけで辺りを見渡すと厨の入口に人影が見えた。倒れた音に妻が気がついたのだろう。回らない口を必死に開け、助けを呼ぶよう頼もうとして、俺は妻の様子がおかしいのに気がついた。俺が倒れていることに動揺しているというには何か違う気がする。妻は少しふらふらとしたように俺の前まで歩いてきて目の前にぺたんと座り込んだ。それで、俺にも妻の顔が見えた。妻は泣いていた。泣きながら何やら小さく呟いた。
「……ああ、やっと」
それで全て察してしまった。妻が食べてももらえない夕食を毎日作り続けていたのはこのためだったのだ。妻の声はどんどん激しくなっていき、今や慟哭となっていた。
「あなたが、あなたが悪いのよ! 私は、家のことなんて、関係ないって、そう言ったのに、なのにあなたは……」
妻の顔は悲痛そうに歪んでいた。ふと、いつからだろう、と思った。どんなに冷たく接しても困ったような笑顔を浮かべていた妻が笑顔を浮かべなくなったのはいつからだろう、と。関係ないなんて社交辞令だと思っていたと、そう言い訳したくても、もう声が出なかった。目の前が霞み、段々暗くなっていくのが分かった。妻のすすり泣く声を遠く聞きながら、俺は意識を手放した。
あなたが食べてくれるまで 鹿瀬琉月 @kanose_runa
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