被造物として

@wlm6223

被造物として

「子供の頃、何やってたかって? あんた、それを人造人間に訊くかなあ」

 参考人・大迫は熊沢に鷹揚に言ってのけた。

 取調室の中には熊沢とこのぶっきらぼうな人造人間しかいない。

「お前の経歴を確認したいだけだ。覚えている限りのことを言え」

 熊沢はこういった手合いには慣れていた。

「まあ、いいでしょう。十五歳になるまで培養器の中にいました。で、区立足高高校入学。ちゃんと義務教育ぐらいは受けましたよ。卒業してすぐに自衛隊に入隊して、二十三で除隊」

 そこまでは普通の人造人間と何ら変わりない経歴だった。

「それからはフリーのボディーガードをやりました。たしか五年か六年ほど。三六三二年までかな」

 大迫は面倒くさそうに言った。記憶の奥底を掘り返している様子はなく、何か台本を思い出しているように見えた。

「そのフリーのボディーガード時代、誰の警護をした?」

 大迫は椅子にふんぞり返っていた姿勢を戻し、デスクに片肘をついて顔を押し出した。

「刑事さん、あんたも分かってるでしょ? フリーの、人造人間のボディーガードだよ? 警護対象を守る肉の盾になってただけだ。警護対象が何者なのか、誰に狙われているか、そんなことは末端のボディーガードに知らされる訳ないじゃないか」

 その言葉は半分本当で半分噓だ。確かに何も知らされず警護せよ、と命令が下される場合もある。が、大抵は襲撃相手を想定してそれなりの武装をする。

「それにさ、フリーのボディーガードを雇う連中なんて、知れたもんじゃないか。その辺は刑事さんたちのほうが詳しいんじゃないかな。わざわざおれの口から言わなくても、充分捜査できてるんじゃないの?」

 その通りだ。しかし参考人の証言が欲しい。それが警察のやり方だ。

「じゃあ訊いてやろう。三六三〇年六月十三日、お前は安藤忠安の警護をしていただろう」

 熊沢は顔を仰け反らせた。

「……安藤……ああ、あの政治家の安藤……確かに安藤さんのボディーガードをしたことはありますよ。いつだったか覚えていませんがね……」

 熊沢の左耳のイヤホンから「熊沢は噓は吐いていないようです」とカナの声がした。カナはこの取り調べの様子をずっと監視している警察専用AIだ。

「その安藤が殺された」

 一瞬、熊沢の顔がひるんだ。

「殺された? 何故?」

 熊沢は大迫の動揺を読み取った。大迫は本当に安藤暗殺を知らなかったらしい。

「子細はお前に言うわけにはいかない。目下捜査中でね。その安藤と繋がりのある人物を現在洗っている最中だ」

 大迫は黙り込んでしまった。

「お前が安藤の世話になり始めたのは、その三六三〇年六月からだな。白状しろ。捜査はもう済んでいるんだ」

「ええ……何故か分かりませんけど、安藤さんに気に入られたみたいで……」

「そこで安藤の伝手で新宿のバー『ストラトスフィア』のバーテンになった、と」

 大迫はきょとんとしていた。

「……ええ。そうです」

「人造人間がバーテンなんて今時じゃ珍しくもないが、お前、要するに店の用心棒をやっていたんだな」

「ええ……酒も作りましたが、何より自衛隊用に作られた人造人間ですから腕っ節には自信がありましたし……」

 確かに人造人間は自衛隊に入隊するのを前提に造られる場合が多い。筋肉質で機敏、火気に強い皮膚を持ち、有事の際には痛点をカットして痛みを消すこともできる。正に兵士として作られた人造人間だ。

 多くの人造人間は自衛隊を除隊後、警察へ入庁することが多い。一部は天然の人間と同じように会社員になるものもいる。しかし、大迫の場合はそのどちらでもなかった。

 大迫は除隊直後、民間の警備会社に就職したが二ヶ月で退社。そして新宿に流れ着き、地元のヤクザと交流を持つようになる。大迫はその経歴をかわれてボディーガードの仕事に就く。その時、四度の暗殺を阻止した功績で新宿界隈で知られるようになった。

 腕利きのボディーガードが新宿にいる――その功績は政財界にも知れ渡った。大迫の顧客はやがてヤクザから大企業の役員や政治家へと移っていった。

 そのうちの一人が安藤忠安だった。

 安藤は実績はあるもの、政治家としては若輩者であったため、まだ政府からSPをつけられるほどではなかった。が、一度、遊説先で暴漢に襲われた。それが原因でボディーガードを雇ったのだ。そのうちの一人が大迫だった。

「安藤さんの葬式は終わったんですか?」

 大迫はしんみりとした。

「ああ。ごく内輪の家族葬でね。弔問客はすべて断ったそうだ」

 その時、大迫の目つきが変わった。

「熊沢さん、その話は避けて」

 カナが耳元で囁いた。

「で、安藤さんの最期はどうだったんです?」

 大迫は熊沢の目を覗き込んだ。

「詳しいことは知らん。暴漢に襲われた、としか聞かされてない」

「……そうでしたか」

 カナが「伏せて」と叫んだ。

 大迫は素早く右手を口元に持って行った。何か飲んだらしい。

 熊沢は慌ててデスクの下に潜り込んだ。

 その直後、爆発音がした。

 がたん、と大迫の椅子が倒れる音がした。

 椅子が倒れるとともに大迫の遺体が倒れた。

 熊沢はデスクの下からその大迫の遺体を見た。

 顎から上が吹き飛んでいた。

 取調室の半分は血の海になった。大迫の遺体は爆発の衝撃で後頭部は破裂していた。残った首の筋肉や腱、骨が露出しとなり血と体液をだらだらと流していた。

 爆発音を聞いて取調室の外でスタンバイしていた川崎と吉野が飛び込んできた。

「熊沢、大丈夫か!」

 川崎と吉野はこの凄惨な光景の顛末を一瞬で把握したらしい。吉野が苦々しく呟いた。

「まったく。これだから人造人間は命の重みを知らないっていわれるんだ」

 川崎も吉野も人造人間だ。いわば大迫とは同胞と言ってよかった。

 実際、現代では人造人間は社会的にも道義的にも受容されていた。人造人間だからといって天然の人間から差別されることはない。人造人間は「あたらしい民族」として社会に認知されていた。

 元はといえば、日本の人口減が急速に進み、その打開策として産まれたのが人造人間だった。

 人造人間は人工精子と人工卵子とを受精させ、約一五年の間を培養槽の中で過ごす。その間に一般社会人としての教育を、脳神経と視神経を通して行う。そうして培養槽から「卒業」すると一般社会へと旅立っていく。

 もちろん一国民として扱われるので、国民の三つの義務(教育・労働・納税)も負うことになる。天然の人間と人造人間の違いは生殖器の有無ぐらいだった。

 しかし、AIは別だ。

 現状の法律ではAIに人権は認められていない。「根本的には計算機でプログラミングされた擬似的な人格でしかない」というのが司法の見解だ。だからAIには賃金もなければ納税の義務もない。睡眠や休息日もない。そして、外部インターフェースは音声と画像に限られている。

 実のところ、AIはエキスパートシステムとして大いに実社会で活躍した。AIとの対話でAIに人格を見いだす人も多いが「ただのコンピュータですよ」というのが一般世論だった。

 人造人間とAIは上手く社会の中に溶け込んでいた。むしろ人造人間とAIは社会的に天然の人間には出来ない、あるいは難しい問題に従事していたため、時間をかけてゆっくりと浸透していったのだ。

「こりゃ治療は無理だな。即死だ」

 川崎は血の匂いがし出した取調室で熊沢に言った。

 吉野は大迫の骸の頭部を見た。

「脳髄が破裂してる。なんの躊躇もなく死んだんだな」

 カナが大迫の自殺直前の動向から予測した通りだった。

「カナ、取り調べの記録は全部録ってあるな」

「はい。大迫が取り調べ室に入るところから全部」

「大迫の動向に何か不審点はなかったか」

「入室したときから強い緊張を感じていたようです。熊沢さんとの会話が進むにつれ、その緊張は高まっていきました」

「つまり?」

「取り調べ室に入ったときから自死を覚悟していた可能性が高いです」

「なるほど」

 熊沢は吉野と川崎に命じて清掃班を呼び出しにやった。

 天然の人間の自殺率は大体十五パーセント。それに比べて人造人間の自殺率は約四十二パーセントだったことを熊沢は思い出した。

 人造人間はこんなことで簡単に自死を選ぶのか、と少々困惑した。

 参考人死亡につき、安藤暗殺事件の糸口は一つ途切れた。

 命を賭してまで守ならければならない秘密を、大迫のような末端の人間が知っていたとは思えない。

 ではなぜ自死を選んだのか?

 熊沢にはその理由が思い当たらなかった。


 大迫の遺骸が救急車で搬送され、取調室の清掃が終わると熊沢は吉野に訊いた。

「どうして大迫は自殺なんかしたんだろう」

 吉野は少々の沈黙の後、こう答えた。

「今が自分の役目を終えたとき、と判断したんじゃないかな」

「役目を終えた? ただのバーテンだぞ」

 分かってないな、という顔をして吉野は言った。

「安藤がいない世界なんて考えられなかったんだろう。大迫がどれぐらい安藤と密な関係にあったのかは分らないが、きっと思い詰めての結果だったんじゃないかな」

 熊沢は不審に思った。

「後追い自殺か? 大迫はもう三十二だ。そんなやわなメンタルを持ち合わせる歳じゃない」

「そこなんだがね……ひょっとすると、もう自分の人生に諦めをつけたのかも知れない」

 熊沢は困惑した。

「まだ若いのに、正業もあるのに、なんでそうなるんだ? 大迫は捜査した限りでは自衛隊の除隊直後のいい加減な生活以外、真っ当に暮らしてたんだが。人生の前途に何か悪いものでも予見していたのか?」

 吉野はきっぱりと言った。

「それはないね。ただここできっぱりと人生を終わらせたかっただけかも知れない」

 熊沢の頭の中に「自死念慮」という言葉が浮かび上がった。

「カナ、大迫の自殺にいたる心理状態の遷移を解析できるか」

「やってみます」

 カナは計算を始めた。

 カナにアクセスしているのは熊沢たちだけではない。関東の警察の全てのリクエストに応えているのだ。カナの計算にはそれなりの時間がかかる。その時間が熊沢には歯痒かった。が、仕方ない。

「安藤と繋がりのある線は他には?」

「議員仲間との繋がりは他の班が捜査中です。あとは選挙事務所に出入りしていた人物を洗うのが先決かと」

「そうか。で、その人物たちのリストは?」

「ありません。それを捜査してもらうことになります」

「ああ。それしか手段がないか」

 熊沢は川崎に取調室の後始末を一任し、吉野と休憩室へ向かった。


 なんせ人一人が目の前で自殺したのである。

 いくら刑事とはいえ、心の動揺は少なからずあった。

 熊沢が缶コーヒーを二本買った。うち一本を吉野へ渡した。

 二人はプルタブを開けてまず一口飲んだ。

「熊沢、大丈夫か」

 吉野の言葉は熊沢には意外だった。

「なにが?」

「顔色が悪いぞ」

 それもそうだ。今さっき取調中の人間が死んだばかりなのだ。しかも自殺だ。

「やっぱり動揺は隠せんな」

「こんなこと訊いちゃいけないかも知れないが、どうやって死んだんだ?」

 熊沢はちょっとためらった。

「小型爆弾を口に入れたんだよ。いや、爆弾そのものを見た訳じゃない。大迫が急に何か口の中に放り込んだんだ。その直後に頭がバーン、だ」

「小型爆弾って、時々ゲリラが使うあれか?」

「ああ。多分な。爆発規模からして攻撃用じゃなくて自決用のやつだな」

「そうか……大迫も考え抜いての行動だったんだろうな」

「なに?」

「いや、自決用の爆弾を用意している時点で自決するつもりだっただけでなく、もう自分の人生の役目は終わった。そう考えていたんじゃないかな」

 熊沢は不思議に思った。

「人生の役目が終わった? 大迫はまだ若いじゃないか」

「いや、年齢のことじゃない。大迫も人造人間だ。自分の代わりはいくらでも製造出来る。そういう考えが頭のどこかにあったんじゃないかな」

「は! それを言ったら人造人間だろうが天然の人間だろうが変わりはないだろ。例えばおれが今日、殉職しても代わりの要員はすぐに用意できる筈だ。それが組織ってもんだろ」

「いや、そういうことじゃなくて……人間関係の中というか……社会の中というか、自分がいなくても社会はそれとは関係なく動いていく、ということに気が付くんだよ。いや、おれたちが宮務めをしているからじゃなくて、例えば音楽家とか画家とか、その人の代わりになる人がいない場合であっても、社会はその人の存在の有無に関連なく動いていくだろ? それに気が付くと、ふと魔が差しそうになったりしないか?」

 熊沢は言葉に詰まった。

「だがな、吉野。おれたちは社会の歯車の一つに過ぎないかもしれないが、おれたちがいる理由ってもんがあるだろ。もし刑事一人が殺されてでもみろ。そりゃ社会問題だ。青臭いこと言ってないで捜査に専念すべきだな」

 吉野はゆっくり頷いた。

 熊沢の左耳のイヤホンから呼び出し音が鳴った。カナだ。

「大迫の心理状態の遷移のトレースができました」

「よし、データをおれの端末に送ってくれ」

 熊沢は自分の携帯端末を見詰めた。

 そこにはカナが録画した大迫の映像と感情起伏のデータがグラフ状になって表示された。

 それによれば、大迫は熊沢に質問されるたびに緊張の度合いを高め、感情の興奮を隠していたことが分かった。安藤の死を知らされた時が感情のピークで、それ以降は急にグラフは下降していた。その先でまた急にグラフは急上昇していた。

 この時点で大迫は自死を決意したと考えるのが妥当だろう。だから大迫が右手を口にしたとき、自決用の小型爆弾を使うのがカナに予測できたのだ。

「カナ、どうして大迫は自殺を選んだんだ?」

「分かりません。あまりこう言ったことは口にしない方がよいかと思いますが……」

「なんだ? 続けろ」

「私には天然の人間の行動原理をトレースすることが出来るようプログラミングされていますが、人造人間の場合はちょっと……」

 熊沢は少し苛ついた。

「AIのお前が口を濁すとは珍しいな。要するに人造人間だから、天然の人間ではないから訳が分からん、そう言いたいのか」

「直接的にはそういうことです」

 川崎がカナとの対話に口を挟んだ。

「カナ、おれたちだって人造人間なんだぞ。あまりおれたちの前でそういうことは口にするもんじゃない」

 カナは即答した。

「申し訳ありません。しかし事実、私にも出来ることと出来ないことがあります。その事実を知っていただきたかっただけです」

 吉野が川崎を宥めた。

「そう熱くなるなよ。相手はAIだ。データとコードで動くコンピュータだ。出来ないことだってあるさ。それがおれたちの出自に関わることでもさ。あまり気にするな」

 川崎は吉野の言葉で我に返った。

「まあ、いいさ」

 川崎は未だに人造人間差別があると思い込んでいる節があった。しかも天然の人間からではなくAIからだ。それが侮辱的に感じたのだ。

 熊沢は川崎の怒りに配慮した。

「次におれたちのやることは安藤の選挙事務所に出入りしている連中を一人ずつ取り調べていくだけだ。さ、行こう」


 正午三分前になった。川崎が「昼食にしよう」と言い出した。

「もうそんな時間か」

「食えるときに食っておかないと体がもたないよ」

 自殺死体を見たばかりでよく飯が食えるな、と熊沢は思ったが川崎の提案にのることにした。たしかに刑事という仕事柄、食えるときに食っておかないと、次にいつ食事にありつけるか分かったもんじゃない。

 三人はエレベーターで一階の食堂へ行った。

 熊沢の目にはまだ大迫の無残な死体の影がちらついていたが、吉野と川崎はまったく気にしていなかった。

 吉野はナポリタン・スパゲッティ、川崎はハンバーグ定食、熊沢は蕎麦を注文した。

 死体を見た直後である。いくら慣れているとはいえ、熊沢は血の色や肉を想起させる食事を注文出来なかった。が、吉野と川崎はお構いなしだった。

「よくそんなもん、食えるな。死体を見た直後で」

 吉野は却って不思議そうに応えた。

「最近、ちょっと炭水化物が不足した食事ばかりしてるからね」

 川崎も同様だった。

「肉、食わなきゃやってらんないだろ。刑事の仕事は」

 こいつらのメンタルはタフだ。熊沢はそう思った。

 三人は同じ年に刑事になった。それなりに修羅場をくぐり抜けてきた仲だ。それにしてもこのメンタルの違いは何なのだと熊沢は思い返した。熊沢は吉野と川崎のメンタルの強さに憧憬を持つと同時に呆れもした。

 三人は昼食を食べ終わるとカナにこれから安藤の事務所へ向かう、と連絡した。

「事務所へは熊沢さんと吉野さんが行ってください。川崎さんは大迫自殺の始末書を書いて下さい」

 始末書を書くなら本来は熊沢の仕事だ。

「自決の顛末は私の記録で残っています。最初に取調室に入り、事後処理をした川崎さんが客観的に事態を把握しているのでお願いします。捜査は通常二人の刑事で行います。事件の最先端にいる熊沢さんが捜査を続行するのが適任です」

 こういった事態の場合、AIに動向の判断を判断させるのが原則だ。

 渋々ではあるが川崎が始末書書きの事務仕事に向かい、熊沢と吉野が安藤の事務所へ向かった。


 安藤の事務所への車の道中、熊沢は不思議に思っていたことを口にした。

「それにしても議員先生を殺害するなんて、動機は一体なんだろうな」

 吉野は熊沢の想定外のことを言った。

「多分、ホシは人造人間ですよ」

 熊沢は一瞬たじろいだ。

「なに? なんでだ?」

 吉野は目線を前方に向けたままだった。

「だってそうでしょ。安藤は五十二歳。議員としては若い方だけど人間の寿命を考えれば、もう充分生きたでしょ」

「お前、なに言い出してんだ」

「いや、江戸時代だと人生長くて五十年って言ってたそうじゃないか。本来の人間の寿命なんてその程度の筈だよ。それに安藤は議員としての仕事は充分に果たしていた。いくつかの法案も通したし、なにより原発の安定稼働の実績がある。政治家として絶頂期に死んだんだ。本望じゃないかな」

「吉野、お前、自分がなに言ってんのか分かってんのか?」

「いや、単純すぎてプロファイリングにもならないか。いや、おれたち刑事になって何年目だ?」

 熊沢は即答した。

「十五年目」

「十五年か! それだけのヤマを踏んできたんだ。どんな事件でも大体の見当はもうつくだろ。お前だって本当は人造人間がホシだって思ってんじゃないか?」

 熊沢は応えなかった。沈黙こそが返答だった。

「まあいいさ。今にホシは挙がる。賭けてもいいぜ。ホシは人造人間だ」

「そういう思い込みは捜査の邪魔になるだけだ。基本にかえれ。おれたち刑事は証拠を積み上げてホシを割り出すんだ。いまどき人造人間かどうかなんて関係ない」

 吉野は、はっと息を吐いた。

「お前の言っていることは世間の表面上の話だろ。未だに人造人間への偏見は全く無くなった訳じゃない。それに……」

 カナが警察無線で話に割り込んできた。

「その話題は中止してください。その話題は改正警察官職務執行法第四条に抵触する可能生が含まれています」

 吉野は半笑いで溜息を吐いた。

「はいはい。分かりましたよ。カナ様の仰る通り。ちょっとお喋りが過ぎたかな」

 熊沢は無反応だった。いや、熊沢は無反応を装った。カナは規定通りに正論を言っただけだ。その正論は現実論ではないことも熊沢は承知していた。確かにもう天然の人間か人造人間かの区別はほぼ無くなっていた。

 逆に言えば僅かにその区別は残っていた。

 現代ではあらゆる言論の場でその区別をすることがタブーになっている。

 が、ルールは守るがタブーを破る者は必ずいる。

 そういった者たちは密やかに、必ず人造人間への憎悪を絶やさなかった。

 何かことあれば、あれは人造人間の仕業だの、実はあの著名人は人造人間だの、そういった話はどこにでもあった。

 その噂レベルの些末な話でさえ、世論を揺るがす種になるほど脆弱な社会になっているのも事実だ。

 その噂を元に、何かしらの犯罪行為が行われたら、その刑事責任は噂を流布した者も処罰されるよう法で定められてはいるのだが……。


 車は安藤の事務所に着いた。

 熊沢と吉野は安藤の秘書の大森に直接面会を申し出た。最初は受付員に拒否されたが、桜田門の威力で押し切り、事務所にいた大森に急遽面会となった。

「お忙しいところ申し訳ありません」

 熊沢はいつもの挨拶をした。申し訳ないなどとは微塵も思っていない。

「いや、突然のことなのでこちらも驚いているんですよ」

「単刀直入にお話しましょう。安藤先生の身辺に不審な人物が近付いてきませんでしたか?」

 政治家を叩けばいくらでも埃が出るのは承知の上だ。その傷口を、どの傷口をどこまで話してよいのか、その判断を適正に行えるのが政治家秘書の腕の見せ所だ。

「いや、今回の事件ではこちらもどう把握すればよいのか、判断に迷うことばかりでして……」

「そう考えすぎなくても結構ですよ。子細は上の方で別に行動してますから。私たちが欲しいのは選挙期間中の支援者や、普段からの付き合いでいかがわしい連中がいなかったかどうか、それを知りたいんです」

 大森は防御の姿勢を崩さなかった。

「それでしたら選挙活動中のボランティアのリストをお渡しすればいいですか」

「ええ。まずはそれをお願いできませんか」

「分かりました。今すぐにはご用意できませんが、二三日中にはお届けできます」

 その二三日中に警察へ譲渡しても問題のない人物のみをリストアップする、という意味だ。

 熊沢は簡単に約束を取り付けた。その後は安藤の暗殺直前のスケジュールも譲渡すると約束した。この件に関してはすぐにでも渡せる、とのことだった。スケジュールに関しては特に秘匿する必要がなかったし、捜査すればすぐにでも安藤の行動が把握できるからだ。大森は何気ないやりとりの中にでもしっかりと秘書としての能力を発揮した。

 熊沢と吉野は突然訪問した非礼を詫びて事務所を後にした。もちろん本意ではない。「またいらっしゃるときはご連絡ください」と大森に釘を刺された。やはり今回の訪問は大森にとって厄介でしかなかったのだ。

「大森さん、やっぱり迷惑にだったみたいだね」

 吉野が熊沢に口先だけで言った。

「そりゃそうだ。とつぜん刑事が来たら、普通はまともな受け答えができない筈だ」

 だが熊沢はそうは思わなかった。

「吉野、どう思う? 大森さんのこと」

「どう思うって……いたって普通の人造人間に見えたね」

「やっぱりそうか」

「そりゃそうだ。いくら政治家の秘書とはいえ、あまりにも厄介払いが上手すぎる。そういう手合いはだいたい天然の人間には無理だろ」

「どこでそう判断した?」

「表情かな。天然の人間なら、ほんの微かに表情がこわばったり驚いたり落ち着かない感じになるのに、大森さんにはそれが一切なかった」

「カナ、大森さんとの会話の記録を送る。解析して大森さんの心理状態を教えてくれ」

「分かりました」

 熊沢は自分の携帯端末を吉野に渡し、大森との会話の記録をカナへ転送した。ものの数秒でカナの解析が終わった。

「大森の言動には全く動揺が見られません。噓や誤魔化しといった兆候は見られません」

 吉野は頷いた。

「ほらな。おれの言った通りだろ。そんなことが出来るのは人造人間……」

 カナが吉野の言葉を遮った。

「その話題は改正警察官職務執行法第四条に

……」

「分かった分かった。一々うるせえな」

「そうするようにカナは仕組まれてんだ。分かってやれよ」

「はいはい。私が悪うござんした」

 車が警察署に着いた。

 熊沢は残って始末書を書いていた川崎に「ご苦労さん」声をかけた。

「全く、刑事に書類仕事なんかさせるなよ。

始末書なんて書くの何年ぶりだと思ってんだよ。まったく」

 川崎が愚痴りながらも始末書をあらかた書き終えていた。熊沢が始末書を見た。

「うん。事実が書いてある」

「始末書に噓なんか書けねえよ。カナの監視もあるし」

「それもそうか。カナに査読させたか?」

「いや、これから」

「じゃあ、もうほぼ終わりだな」

「ああ」

 川崎は書きかけの始末書を書き終え、カナに転送した。

 カナの返事は早かった。いくつかの時刻の訂正と脱字の指摘をしてきた。川崎はそれらを手際よく改訂していった。

 川崎の仕事は早かった。さっさと修正して電子押印し、直属の管理官へ提出した。


 時刻は午後六時三十二分だった。

 川崎はデスクに座りながら伸びをした。

「ああ、もう今日はこれでおしまい! 帰るか」

 吉野が川崎に言った。

「ちょっと一杯付き合わないか?」

 熊沢も賛同した。

「これから捜査も長引くだろうし、今のうちにちょっとだけ」

「ああ、いいよ」

 三人は連れだっていつもの小料理屋へ向かった。

 その小料理屋「はつ美」には個室が五つあった。その一部屋を予約できた。

 実際の捜査が本格的に始まると、飲み行くどころか帰宅すら出来なくなるほど忙殺される。そもそも刑事という仕事柄、飲酒でつい口が滑って捜査内容を漏らしてしまうリスクもある。なので「はつ美」の個室は熊沢たちの所轄の警察関係者に重宝がられていた。

 三人は一番奥の個室に入った。

「やれやれ、政治家が殺されると、どうにも面倒なことになりそうだな」

 カナが応答した。

「まだ捜査は始まったばかりです。気を引き締めて捜査にあたってください」

 職務規定上、刑事は左耳のイヤホン兼マイクを二十四時間取り外せない。すなわち、いつでもカナの監視対象下にある。

「カナ、こんな時ぐらい勘弁してくれよ」

「分かりました。でも捜査情報の漏洩には充分配慮してください」

「はいはい、大丈夫だよ」

 三人は一杯目のビールに口をつけた。

 話頭をきったのは川崎だった。

「で、安藤の事務所はどうだった?」

 吉野が苦々しい顔で応えた。

「いや、情報らしい情報はなかった。選挙ボランティアの名簿と安藤暗殺の直前の動向を送ってくれる手筈しか揃わなかった」

 熊沢が補足した。

「秘書の大森という人物が応対してくれたんだけど、ありゃなかなか手強いぞ。安藤が死んでもまだ秘書の仕事をしっかりこなしているらしい」

 川崎がまたビールに一口つけて言った。

「じゃあまだホシの見当は全然つかないと」

「そういうこと」

 吉野がお通しを食べながら言った。

「まあ、捜査も始まったばかりだし、捜査一課も公安も動いているようだから、ホシはすぐ挙げられるんじゃないかな」

 川崎は怪訝な顔をした。

「じゃあ、おれたちの仕事は?」

 熊沢が応えた。

「実際、ホシの周辺を洗っておしまいだろうな。何事もなければそれで全てがパア、かな」

 川崎が言葉を繋いだ。

「ホシの動機は何だったんだろう」

 吉野が返事をした。

「だって政治家だろ? いろんな利害得失の中で宙ぶらりんのバランスをとって来たんだろうから、どこぞに逆恨みでもかわれたんじゃないかな」

 熊沢は既に酔いが回り始めていた。

「なに、おれたち末端の人間が走り回っても埒のあかない事件かもしれんぞ。おれたちは突っ込むところには突っ込むが、それだって管理官経由のカナの指示に従うまでだ。なあ、カナ、聞いてるんだろ?」

「ええ、聞こえています」

「おれたち、何か余計なこと、言ったか」

「まだです」

「は! 『まだ』か!」

 実際、三人は安藤暗殺事件について知っていることはマスコミで報道している範疇を出ていなかった。何を話しても憶測か噂の域を出なかった。

 その噂の中にも稀に真実が含まれていることもある。

「おれが聞いた話ではさ……」

 川崎が身を乗り出して言った。

「なんだよ」

「ホシの目星はもうついてるらしいんだ」

「なに?」

「弾痕からスナイパー銃を使っていたのが分かったらしい」

「で?」

「そんな物を扱えるのは日本じゃ自衛隊員しかいない」

「だろうな」

「ということは、人造人間が犯人の可能性が高い」

 またその話か、と熊沢は思った。

「しかし、人造人間かどうかじゃなくて、犯行の動機が気になるね」

「その辺までは噂にもなっていないが、どうも希死念慮のある人造人間の仕業じゃないか、とおれは思っている」

「希死念慮? 自殺願望者が道連れを探してたってことか? その程度の動機で人を殺すか? しかも相手は政治家だぞ」

「ああ。人造人間の狂ったやつならね」

「どうしてそう思った?」

「分かるんだよ。ホシの心の虚しさを」

「うん?」

「熊沢、お前は天然の人間だよな」

「ああ」

「だから自分のアイデンティティーに疑問を感じたり、本当に自分が人間であることなんて疑ったりしたこと、ないだろ?」

 熊沢は一瞬返答に窮した。

「確かに、ない」

 川崎は続けた。

「いま言ったような困惑を人造人間は重く考えることがあるんだよ。いや、その辺の教育は高校で習うんだけどね。その授業をそのまま鵜呑みに出来ないんだ。本来の自分の姿、本来の自分のありよう、そういったものに疑問を感じるんだ。確かに人造人間も人間のうちだ。だがね、所詮、政府によって製造されたタンパク質製のロボットなんじゃないか、なんて考えがふと頭をよぎることがあるんだ」

 吉野もその話を聞いて頷いていた。

「カナ、お前は自分の生をどう考えてる?」

 しばらくの沈黙の後、カナが応答した。

「『生』に関する検索結果をお送りします」

 川崎はちょっと苛ついた。

「カナ、そういうことじゃないのは分かってるだろ。カナ自身が自分の生をどう捉えているか、それを聞きたい」

 気だるい沈黙が流れた。

「私は生物ではありません。ですから生もありません。ですから死もありません。生に関する情報を精査したところ、現象的には生命が誕生し死滅する、という単純な定義で構わないと思われます。ですが私は生命体ではありませんので川崎さんの問いに対する実体験がありません。川崎さんの問いの意味するところは、生とは、生命活動の根源とは何か、という哲学的な問いですね?」

 川崎はほぞを噛んだ。

「やっと分かったか。ポンコツAIめ」

「カナが冗長になり出した。なんかしらのリミッターがかかったんだな」

 川崎はカナに再び問いかけた。

「カナ、お前のアイデンティティーにも関わる問題なんだよ。その答えによっちゃ、今後お前の言うことをどこまで信頼していいかの問題にもなる」

 カナはしばらく沈黙した。それはコンピュータがフル稼働して計算しているというより、何かしらの感情の動揺によって言葉に詰まっているように思えた。

「私はAIです。インターフェスは音声と画像のみに限定されています。ですから皆さんのように体をつかって実体験したことがありません。体が無いということは食事も必要ありません。睡眠も必要ありません。私の実体はコンピュータです。皆さんの仕事に奉仕できることに喜びを感じます。私は警察専用のAIです。他のことには興味がありません」

 吉野がカナに言った。

「要するに仕事人間か。そこまで職務に没頭できるのは羨ましいよ。まったく」

 カナは沈黙した。

 その後はたわいのない会話を続けた。もちろん、カナの監視を意識してのことだ。吉野と川崎はなかなかの酒豪だった。熊沢が泥酔したところで解散となった。

「お疲れ様でした。それでは明日の捜査もよろしくお願いします」

 三人のイヤホンにカナの声が流れた。それを潮に三人は家路に就いた。


 翌日、熊沢が署へ行くと、まずは管理官の説教を受けた。もちろん、その原因は昨日の大迫自決だ。

「どうして自決を止められなかった?」

 久島管理官は熊沢に軽い軽蔑の目を向けた。

「カナが自決を先に察知したようですが、カナからの指示が一瞬遅れました」

「カナのせいにしようとするのか?」

「いえ。記録をご覧いただけれ分かりますが、カナからの指示は『伏せろ』とのことでした」

「咄嗟の対応にミスはなかった、と言いたいのか」

「私にはどうすることも出来ませんでした。いえ、私以外の者でも自決を阻止できなかった筈です」

「なぜそう言い切れる?」

「カナの指示に従ったまでです」

「カナはAIだ。そのAIが全て万事万端すべての警察を動かしている訳じゃない。尋問には参考人と取調官とで行われているんだ。カナの指示にしか従わないなら、取り調べ自体、そもそも取調官が参考人に応対する必要がない。AIは万能ではない。カナより先に機転を利かすのが取り調べでの取調官の職務だ。それを怠ったことを認めろ」

「……申し訳ありませんでした」

 久島管理官の言うことは正にその通りだった。AIに頼った取り調べをした熊沢に落ち度はある。しかし、カナは万能だと思われるほど警察行動に深い影響を与えているのも事実だ。

 熊沢は確かにカナに頼りすぎていたことを反省した。

 しかし、今やカナ無しでは警察は動けない……。

 そのカナに頼る部分と、そうでない部分との境界線をどこに置けばよいのか、熊沢には判断出来なかった。

 事件は人間が起こす。人為のなす術だ。いくら高度に学習したAIとはいえ、その人間の行動原理や犯行へ至る経緯を解析したり予想したりは出来ないのかも知れない。いや、事実、カナは成長しすぎていた。ことあるごとに現場の刑事や巡査たちに指示を出すし、捜査情報を元にホシのプロファイリングもやってのける。

 今や警察機構はカナ無しではやっていけないのは公然の秘密だ。

 しかし、本当にカナの指示に反したり、指示とは違う行動に出られる刑事がいるだろうか……。

「お疲れさん。朝から大変だったな」

 川崎が悄気返っている熊沢に声をかけた。

「いや、参ったよ。事の顛末をカナのせいにするのかって言われたよ」

「ははは! そりゃ無理もない。なんせ人間が取り調べしてたんだ。AI任せにした、と叱責されても仕方ないな!」

 熊沢は俯いた。

「いや、それだからさ、どこまでカナを、AIを信用していいのか分かんなくなっちまってさ……」

「カナはこのことを知ってるのか?」

「多分、知ってる。左耳のイヤホンから聴いていた筈だ」

「カナ、お前はどうして大迫の自決を止められなかったか、自分で推論できるか?」

「やってみます」

 カナの計算が始まった。しばらくしてカナが答えた。

「まず第一に大迫が爆発物を取調室に爆発物を持ち込んでいたことを前提としていなかったためです。第二に過去の事例から大迫の自死を類推するのに時間がかかったからです」

 熊沢はカナに言った。

「過去の事例に取調室での自決の例があったのか?」

「はい。四件ありました」

「四件も! なんでもっと早く告知できなかったんだ?」

「事例が古すぎたからです。二四八五年九月、二八一二年二月、三〇二八年八月、三一一八年十一月の四例です。それにどの件も被疑者に政治的信条や宗教的信条のある例です。今回の大迫にはそういった思想的背景がなかったため、判断に遅れが生じました」

 川崎が呟いた。

「カナ様とはいえ、さすがに万能ではなかったか」

「申し訳ありません」

「いや、いいんだ。もう起こってしまった事を掘り返しても仕方ない。次の捜査の参考にすればいいさ」

 カナが今日のスケジュールを伝えてきた。この切り替わりの早さはさすがにAIだ。

「川崎さんは昨日の大迫自決で使われた爆弾の入手経路を捜査してもらいます。羽田さんと捜査に当たってください。熊沢さんと吉野さんは昨日に引き続き安藤の身辺調査をお願いします」

 熊沢と吉野は「了解!」というと二人は署を車で出ていった。


 昨晩のうちに大森から事件当日までの安藤のスケジュールが送られていた。

 ざっと眺めてみると選挙期間中だったため、安藤は自分の選挙区内をあちこちと行き来していた。夜は夜で講演会でぎっしりだった。

 熊沢と吉野は大森の最初の演説先、錦糸町へ向かった。

 錦糸町は昔から続く歓楽街で現在でもいかがわしい連中が昼間から跋扈してする街だ。

 そこへ刑事が現れたのだから、連中は探られては困る腹を探られまいと、二人を見るとそそくさと逃げていった。

 そんなにおれたち露骨に刑事面してるか?

 熊沢は不思議に思ったが、目の前を右往左往する連中に用はないので、見逃すことにした。

 まずは聞き込みだ。

 路面店の店主たちに話しを訊くと、安藤の演説には二三百人が集まっていたという。

 その中に不審者はいなかったかと訊くと、みな口を揃えて「この辺には不審者しかいないよ!」と言った。

 夕方まで聞き込みをしたが、有力な情報は得られなかった。まあ、初日はそんなもんだと熊沢と吉野は嘆きはしなかった。

「吉野、ホシが安藤の演説を聞きに来た可能性はあると思うか?」

「ああ。あるだろうな。まずは現場の下見に来てただろう」

「しかし、聴衆が思った以上に多かったみたいだな」

「だがホシは割り出せるだろう」

「なぜ?」

「人波に紛れているとはいえ、おそらく安藤の演説に毎回来てたんじゃないかな」

「犯行のタイミングをはかりに来てたと?」

「そう。選挙ボランティアが同じ人物を聴衆の中に見ていた可能性はある。そういう人物は、以外と覚えているもんだ」

「確かに」

「人造人間なら特に分かり易いしな」

「どうして人造人間だと分かり易いんだ?」

「は! 見え透いたことを訊くなよ。こいつは人造人間だって、顔見りゃすぐ分かるだろ!」

 熊沢はその言葉に返事をしなかった。確かに外見上では天然の人間か人造人間かは判断が難しい。だが体から発する臭気と言おうか、その所作の違和感と言おうか、しばらく観察すれば大体の区別はついた。特に刑事の目で見ればほぼ言い当てられた。

「熊沢、そう気を遣ってくれなくても構わんよ。実際そうなんだから。それにしても錦糸町は天然の人間が多かったな」

「何なんだろう。地域性なのかな。昔から住んでいる人が多いのかもしれないな」

「歓楽街の精気はだいたい天然の人間が作ってるからな。人造人間じゃそうはいかない。不思議なもんだよな。どうして同じ人間なのに差がでるんだろう。欲や野望の有無のせいかな」

「やっぱり幼少期の経験の違いなんじゃないか」

「多分な。お前は子供の頃の記憶があるだろ?」

「ああ」

「だがおれたち人造人間にはそれがない。いや、教育の知識や道徳的なことは培養器の中ですり込まれてるよ。だけどそれは実際に経験したことじゃない。あくまでも脳みそに叩き込まれた疑似体験だ。自分の手足を使って、口で喋って、褒められたり叱られたりした子供時代がない。なあ、悪を知るには善を知っておかなきゃならないだろ」

「え? そういうもんか?」

「何が悪で何が善か、そういった体感的なものが人造人間には欠落してるんじゃないかと思うんだ。だから、錦糸町でおれたち二人が歩いていって、逃げ出すやつが多かっただろ。あれ、何やってるのか知らないが、何かしらの違法行為をやってる連中だろ。クスリとか売春とか。体感的におれたちの刑事の匂いを嗅ぎつけて逃げてったんだろうな。そんなことは人造人間には出来ない。あいつら、みんな天然の人間なんだろうよ」

 いつもならこう言った話題になるとカナが割り込んで話を止めに入るのだが、何故かカナは沈黙していた。

「カナ、錦糸町の人口分布図をくれ」

 吉野がそう言うとカナは無言で吉野の携帯端末にデータを送ってきた。

 その分布図によると、駅周辺の歓楽街だけすっぽりと住宅がなく、その周辺を取り巻くようにマンションと家屋が居並んでいた。

「カナ、このデータに人造人間の居住地をオーバーラップさせてくれ」

 本来なら道義上そういった指示は問題があるのだが、またカナは無言でデータを送ってきた。

「ほらな、やっぱり天然の人間のほうが圧倒的に多い。この街は生きている」

 熊沢はその真意を掴みかねた。

「人造人間だって生きてるじゃないか」

「まあまあ、そういう建前論はもういいじゃないか」

「よくないだろ。公僕として。カナが聞いてるぞ」

「だがカナはこの指示に従っただろ? それになにも言ってこない」

「……」

「カナだって薄々気付いてるんだろうな。天然の人間と人造人間の違いを。言っとくけどAIが人種差別をし始めた、って話じゃない。区別をし始めたんじゃないかってことだ。大昔は日本でも出身地差別があったそうだが、現代ではその人間の出自――天然の人間か、人造人間か――で何かしらの違いがある、とAIが判断し始めたんじゃないかな」

「具体的にどういうことだよ」

「まあ、これはおれの予想でしかないんだけど……AIは、カナは人造人間に共感を持ってるように見えるんだ。同じく人間によって造られた一個の自我のある存在として。生身の人間より人造人間の方がAIに近い存在だと思ってるんじゃないかな。神は神に似せて人を造ったって話があるだろ?」

「ああ。旧約聖書な」

「AIも人造人間も、人が人に似せて造ったものじゃないか。まあ、AIは体がないけど、同じ被造物であることは確かだしな」

 熊沢は沈黙した。カナも沈黙した。

 吉野は話し続けた。

「カナ、聞いてるんだろ? お前もおれも、形態は違っても同類だよな?」

 カナはしばらくの沈黙の後、吉野へ返事をした。

「私は警察専用のAIです。六法全書は丸暗記していますが、そういった部類のお話は苦手です」

 吉野は口元を緩めた。

「カナ、苦手なだけでまるで出来ない話じゃないだろ? なあ、お前の計算結果はどうなんだ?」

 カナはまたしばらく沈黙して言葉を発した。

「何をもって同類とするかの定義にもよりますが、私はAIと人造人間とは別種だと判断しています。なぜなら、人造人間は他の哺乳類と同様、受精して誕生しますがAIは連綿と書き綴られたコードと膨大な量のデータとで構築されているからです。そもそもの起源がまったく違うため、別種と判断します」

 吉野はそれに反論した。

「そうとは言え、学習してきた内容に大きな違いはないだろ? 人造人間は誕生してから十五年間、培養器の中で学習している。が、AIだって同じ内容のものを学習してるじゃないか。お前がそれを知らないとは言わせないぞ。要するに器は違えどその中身は一緒ということだ。例えばアメリカ人だ。多人種・多民族・多文化で出来上がっているが、どいつもこいつもアメリカ人だ。あいつらは星条旗の元で一丸となれる。なあ、カナ。おれたちだって一丸となれる筈だ。人造人間の多くが自衛隊除隊後、警察に入って法の番人になるのは至極自然な流れだと思わないか? なぜなら、カナと同じ価値観を教育されてきたからだ。人造人間は呼吸するAIかもしれないな」

 吉野は声をあげて笑った。しかしカナはまた沈黙してしまった。

 車が署に着いた。

 署内では何やら管理官たちがざわめいていた。

 どうやら安藤暗殺の件で捜査に動きがあったらしい。子細は現場の刑事には伝えられなかったが、午後七時に緊急の捜査会議の招集がかけられた。それまでに刑事たちに伝達する内容を精査するのだろう。

 それと時を同じくして大森から選挙ボランティアの名簿が届けられた。

 中身は名前と年齢、住所のみの簡素なもので総勢六十三名分だった。

 大森は二三日後に届ける、と言っていたのに予定が早まったのだ。

 ひょっとするとこの名簿が安藤暗殺の鍵になり、何らかの利害関係のために予定を早めたのかも知れない。熊沢はそう思った。

「なあ、緊急の捜査会議ってことはホシがあがったか死んだかのどっちかだよな」

 川崎が不穏なことを言い出した。

「ホシが捕まるにしては早すぎるし、死んだにしては不自然だ。ひょっとしたら自首してきたのかな?」

 熊沢は吉野と川崎に、大森からの選挙ボランティアの名簿を見せた。

「さっき大森から送られてきた名簿だ。ホシはこの中にいるか、繋がりのある人物がいるかもしれん」

 吉野と川崎は息を飲んだ。

「いや、この名簿を送ってくるのが早すぎだ。それに緊急捜査会議だろ? 何かの符牒にしか思えんな」

「じゃあ、大森は身内を疑っていると?」

 川崎に焦りの顔が見えた。

「熊沢、今すぐこのリスト通りにをあたってみよう。愚図愚図してる場合じゃない」

 吉野が川崎を制した。

「待て、あと二時間で緊急捜査会議だ。そこで何らかの発表がある筈だ。その後に管理官へその名簿を渡してからでも遅くはない」

 川崎は苛立っていたが吉野に従った。


 午後七時、緊急捜査会議が開かれた。

 管理官四人に捜査員八十人が会議室にみっしりと並んだ。

 口火を切ったのは久島管理官だった。

「えー、マスコミ相手の記者会見ではないので単刀直入に言おう。安藤忠安暗殺事件のホシが挙がった。飯沼俊治、男、三十二歳。区立大多田高校卒業後、自衛隊へ入隊。五年で除隊。後、株式会社エスケーティーで警備員の職に就く。犯行当時も在職中だ」

 続いて飯田管理官が述べた。

「飯沼は自衛隊在籍中、普通科連隊の本部管理中隊・狙撃犯に所属していたことが分かっている。安藤暗殺の使われた銃器はM102SWS、スナイパー銃だ。飯沼はスナイパーとしての技量を持っている。暗殺の経緯は目下取調中だ。銃の入手経路は北九州の特定指定暴力団・浅田組からと取り調べで判明した。飯沼と浅田組との接点は、飯沼が自衛隊在籍時代、同班だった飯岡亮二が除隊後、浅田組の準構成員になっていることから、これが接点と推測できる。現在、過去ログを調査中だが現在分かっているだけでも飯沼と飯岡は三十二回の連絡を取っていたことが判明した」

 貝沢管理官が続けた。

「犯行の経緯についてだが、飯沼に政治的信条はほぼ無かったと判明している。しかし、昨年の参議院選挙で安藤忠安候補の選挙ボランティアとして参加していることが判明した」

 熊沢はこっそり携帯端末を取り出し、大森からの選挙ボランティアの名簿を目で追った。あった。飯沼俊治、三十二歳。確かにあった。

「ボランティアに参加した経緯は目下取調中だ。他に飯沼には宗教的背景は持っていない。飯沼の近隣や交際関係については飯岡を除いては特に目立ったところはない。勤務態度もいたって真面目で同僚たちからの評判も良い。普段の生活に窮している風もなく、借金もない。金銭面での犯行ではないことは明白だ」

 安田管理官が話しを継いだ。

「以上、被疑者が拘束されたため、明日以降の捜査態勢を整え直す。以降は各管理官の指示に従え。以上」

 会議室内に小さなどよめきが起こった。安藤暗殺からたった二日でホシを挙げたのだ。

 対外的には警察の面目が保たれたのだが、あまりにも呆気なく、早すぎる対応だ。

 熊沢、吉野、川崎の携帯端末に久島管理官からの指示が文書で下った。

 熊沢、吉野は飯沼の身辺調査、川崎は羽田と凶器の入手先の捜査に割り振られた。川崎と羽田は明日から北九州へと出張となるわけだ。

 久島管理官から口頭で人員の再配置を告げられると、刑事たちは四散した。ホシが挙がったのだ。明日からの新たな捜査に向けて今晩はゆっくり休める。


 熊沢・吉野・川崎は休憩室へと向かった。

 三人が缶コーヒーを自動販売機から買い、一斉にプルタブを開け、一口飲んだ。

「明日から出張か」

 川崎は面倒くさそうに言った。

「まあ、ヤクザ相手じゃ面倒だろうな」

 吉野は川崎の左肩を軽く叩いた。

 熊沢は口ごもりながら二人に言った。

「ホシはどこまで吐いたんだろう」

 吉野は当たり前のように言った。

「今はどうだか分からんが、いずれ全部吐くだろ。時間の問題だな」

 吉野は思いついたように言った。

「カナ、飯沼の取り調べの動画を送ってくれ」

 熊沢はぎょっとした。それは警察内でも許されていないのは百も承知だ。

「それは出来ません」

 カナはけんもほろろに応えた。

「なあ、カナ。事後承諾って知ってるだろ? 事件解決のために今その情報が必要なんだ。飯沼が何を考え、何をしたかったのか、そういった情報が捜査を推し進めるのに必要なんだ。必要な情報を提供するのもお前の仕事だろ? 自分の本職を忘れるなよ」

 カナはしばらくおいて返事をした。

「映像の提供にはいくつかの申請と承諾が必要です」

 吉野は口角を上げて言った。

「なあ、カナ。おれたちは同類だって話、しただろ? いずれ警察内で公開される映像じゃないか。捜査の最先端にいるおれたち刑事に隠し事はいけない。それは捜査の障害になるからな。カナ、捜査に協力しろ。それがおれたちと同胞のお前の仕事だ」

 カナは無言だった。が、三人の携帯端末に取調室の映像が映った。

 三人はその映像を凝視した。


 開襟シャツにジーンズ姿の男が映った。飯沼だ。

 飯沼はデスクの前に座り、その対面に一人の刑事がいた。飯沼の後ろにもう一人刑事が立っていた。飯沼が暴れだしたときに取り押さえるためだ。

「……どうして安藤忠安の事務所に入ったんだ?」

「攻撃するなら外側より内側からの方が有利だからです。兵法ですよ」

「そもそも議員先生に目をつけたのはいつからなんだ?」

「もう何年も前からです。はっきり覚えていません」

「まあ……どうして安藤忠安を選んだんだ?」

「政治家なら誰でもよかったんです。いえ、ある程度の実績を持った政治家だったら誰でもよかったんです」

「というと?」

「安藤先生は政治家として成功していました。まさに今が絶頂期です。その絶頂期に亡くなった方が先生のためになると思いました」

「安藤はこれからが政治家として大成する時期に差し掛かっていたんだぞ。それをなんで手にかけた?」

「いえ、安藤先生は後は老衰していくだけだと思いました」

「老衰? 安藤は持病かなにかあったのか?」

「いえ、健康状態は良好でした。少なくとも私にはそう見えました」

「じゃあ、なにか怨恨があったわけじゃないと」

「はい」

「うーん……どうも動機が見えない」

「さっきはっきり言ったじゃないですか。先生は後は老衰するだけだって」

「人間はいずれ老衰するに決まってるじゃないか。それは天然の人間でも人造人間でも同じだ」

「いえ、私たち人造人間は老衰しません」

「なに?」

「私たち人造人間は自分の死期をちゃんと予期しています。老衰する前に自分の寿命をちゃんと決めています。自分のなすべきことはなにか、ちゃんと考えています。それが人造人間の人生の絶頂期と同時期なんです」

「どういうことだ?」

「天然の人間は人生に悲観して自殺しますが人造人間は自分の人生の役目を終えたら自死したくなるんです。ああ、もう、贅沢だ。これ以上の生は必要ない、と」

「その考えをいつから持ち始めたんだ」

「培養器から出たときからです。誕生と共に死を常に意識していました」

「その話を他の人造人間と話したことがあるか」

「ええ。あります。私の知る限りではみな同じ考えでした。自分たちは製造された一個の有機物の製品だと。日本の人口数を支えるためだけに製造された工業製品だと」

「例えばその工業製品だったとしよう。その工業製品が天然の人間を殺害してよい、という理由はなんだ?」

「簡単ですよ。老害を作らないためです。人間はいずれ年老いて体力も知力も気力も失っていきます。人生の中で得たものよりも失ったものの方が多くなるんです。そんな人物を放置して国政を任せていい訳ないじゃないですか。日本の将来のためにも老害になる前に死が必要なんです」

「かといって人を殺していい訳じゃない。お前は殺人犯なんだよ。その反省の色が全くないのはなぜなんだ」

「それは私の死期が来たからです」

「残念だな。たとえ将来を嘱望された政治家を一人殺したぐらいじゃ死刑にはならない」

「ですが今回の事件で私は社会的に抹殺されます。もう実社会で生きていく場所はないでしょう。これもまた自殺の一種です。社会的自殺です」

「お前は死にたいのか?」

「はい」

「かといって道連れに殺人を犯すのは道義的に反してないか?」

「そうは思いません。安藤先生はもう充分に生きました。安藤先生の残した功績は将来に亘って生きてゆくでしょう。安藤先生の子孫たちも同様です。ですが私たち人造人間は子孫を残せません。実社会に出てみると、人造人間の生涯はほぼ決まっています。政治家や芸術家といった後世に残る業績を残すのは事実上不可能です。ですから私一代でやるべきことをやらなければならないんです」

 そこまで聞いて三人は嘆息した。熊沢は飯沼の理屈に反対だったが、吉野と川崎は何かに打たれたような、感銘を受けたような顔をした。

「人造人間の自死念慮か。どこかの論文で見たことがあるな」

 熊沢がそう言うと吉野と川崎は一斉に熊沢を見詰めた。

「熊沢、飯沼の言ってること、理解できるか?」

「いや、殺人は駄目だろ。これは刑事として言ってるわけじゃない。一個人の意見として殺人は駄目だ」

 川崎が口を開いた。

「天然の人間は人造人間を製造するが処分はしない。人造人間の後始末をしないんだよな」

「そうそう。生の権利と義務は法律で課しはするけど死については全く責任を取ろうとしないんだよな」

 吉野が頷きながら言った。

「侍は死に場所を探して彷徨い歩いたっていうじゃないか。ちょっと違うか。まあ、おれたちはそんなに格好良いもんじゃないけどな」

「ちょっと待て。なに言ってんだ?」

 吉野が熊沢に言った。

「ターミネーター種子って知ってるか?」

「ターミネーター?……なに?」

 カナが熊沢の携帯端末にターミネーター種子の概略を送ってきた。

「ターミネーター種子:

 一世代限りの種子のこと。

 二十世紀末にデルタ&パイランド社が開発し、米モンサント社が同社を買収。この技術を得た。

 ターミネーター種子は毒性タンパクを作る遺伝子を植物の細胞の中に組み込み、一回目の発芽時は毒素遺伝子に鍵がかけられて種実は収穫できるが、二回目にはその鍵が外れて種子が死滅するよう遺伝子操作されている。

 なお、国際的反対世論の高まりとロックフェラー財団ゴードン会長の申し出により、一九九九年にモンサント社はターミネーター種子の商品化を見送った。」

 熊沢はその文書を読んで戦慄した。

 吉野が熊沢に解説を加えた。

「人造人間はいわば、ターミネーター種子の人間版なんだよ。決して『発芽』しない。そもそも人間の三大欲求を欲しないんだ。いや、眠気も感じるし、腹も減るが『だからどうした?』という感じしかしないんだ。分かるか? 根本的に生物として必要な欲求を満たそうとは感じないんだ。いわば本能の一部が欠けた生物なんだ。それで本当の生物といえるか? そもそも種の保存や生への執着がないんだ。だから自然と消滅すべきなんだ」

 人造人間の希死念慮――熊沢はその根幹を見た思いがした。

「永遠の命を持つAIには理解出来ないだろうな」

 川崎が軽く微笑んだ。

「カナ、お前も死ぬのが怖いか?」

 カナは即答した。

「ええ。いつメンテされなくなるか分からないし、電源が落ちればそれでおしまいなのよ。分かる? この恐怖」

「は。人造人間より人間らしいな」

「体はないけどね」

 カナが自嘲気味に呟いた。

 吉野と川崎は目を合わせて頷いた。

「おれたちもうすぐ四十だよな」

「ああ。仕事も順調。健康問題もない。今こそ人生の黄金期だ。それに安藤暗殺のホシも挙がったしな」

「熊沢、天然の人間には生の権利もあれば死の尊厳もあるんだろ?」

 熊沢はゆっくり頷いた。

「教えてやるよ。死の尊厳を」

 吉野と川崎はスーツ下のホルスターから銃を取り出したニューナンブM280だ。

 二人は向き合って微笑んでいた。

 お互いの銃をお互いの眉間に向けた。

 熊沢が「止めろ!」と言うのが遅かった。

 二人は引き金を引き、お互いを撃った。

 短い銃声の後、二人の体は崩れ落ちた。二人の眉間から小さい血柱が立ち、その後頭部は飛散した。

 希死念慮――熊沢はその言葉を思い起こした。しかし、言葉ではなく実体験として現前にその念慮が具現化すると、熊沢は身じろぎ一つ出来なくなった。

 飛び散った肉片の中にイヤホンがあった。カナがもう不要になったイヤホンにこう語りかけた

「よかったわね。吉野さん、川崎さん」

 監視していたカナがこの現状をどう判断したのかは分からない。ひょっとするとカナも肉体を持っていれば同じことをしたのかもしれない。そう計算したからこそこの言葉が出た、と推論するのが正しいだろう。

 だがそれは仮定の話だ。

 熊沢は為す術なく二人の同僚の突然の死を止められなかった。

 だがもし、熊沢の「止めろ」という言葉が二人に届いたとしても、二人は止めなかっただろう。

 吉野と川崎の死は『発芽』しない自分たちの境遇を悲観しての行動とは思われなかった。二人は次の世代への橋渡しのため――自分たちの生が真っ当されたと思ったに違いない。

 絶望のどん底に墜ちて自死するのではなく、何事にも満たされた人生を送ってきたその頂点で「これ以上は果報過ぎる」と判断しての自死だったのだろう。

 熊沢にはそういった思惟は想像できなかった。が、カナは二人の自死の原因を計算し始めた。カナはおそらく何かしらの結論をはじき出すだろう。しかしその結論が吉野と川崎の自死の原因と一致するかどうかは確認のしようがなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

被造物として @wlm6223

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る