高校二年・穀雨(二)

 ひとことで言うなら、最悪。

 うめき声を上げながら重い身を起こす。下着の中のぐず、と濡れた感覚に舌打ちをした。

「ほんと、最悪……」


 睡眠中の吐精は、璃空にはよくあることだった。

 華奢な璃空の身体にも、とっくに第二次性徴は訪れている。しかし、彼にとって性の処理は難しかった。彼の恋愛アレルギーは、性行為に対する嫌悪と軽蔑に端を発したものだからだ。

 ──触って、擦って、出して。それがきもちいいなんて、ありえない。おれはそんな、無責任な馬鹿にはならない。絶対に。

 浴室で手洗いした下着は、いつも登校前に自室のベランダに干している。けれど母はおそらくそれを知っていて、おれがほとんど夢精という形で生理現象の処理をしていることにも、薄々気づいているんだと思う。処理を怠る理由にさえ気づいたうえで、気づいていないふりをしてくれる。優しい母だと思う。その優しさがいたたまれなさに拍車をかけているというのは、よくできた皮肉だが。


 時刻は午前六時三十分。下着を洗わなければならないので、そろそろベッドから抜け出す必要がある。

 再び身じろぎすると、なまめかしい水音が鳴った。

「ん、……っ」

 一週間分の負債だ、かなりの量が出ているらしい。それどころか、ぬかるんだ中心はうっすらと芯を持ち始めていた。少し動けば下着の布地がこすれて、一層熱を帯びるようだった。

「ほん、とに……」

 震える手で、それに触れる。ゆるゆると扱くにつれて、呼吸がうまくできなくなる。粘り気のある音、絡みつく温度。自分の息遣いや漏れる声がきもちわるくて、気が遠くなりそうだ。

「……っ、う」

 ……いやだ。

 いやだ。性行為なんて、おれの人生にはいらない。自慰だってしたくない。だって、だって……大きらいだ。だいっきらいなんだ。

「ん、んん……っ!」

 視界が白くはじけて、ようやく達した。ふぅふぅ、肩で息をしながら背中を丸める。ああもう、しばらく動けない。身体を痺れさせる余韻も、この甘ったるい気怠さもすべて、ゴミ同然の感覚だ。

 いつから泣いていたのだろう。頬がしとどに濡れていた。


 朝のホームルームには、開始ぎりぎりのタイミングで駆け込んだ。

 なぜだか椅子が廊下側を向いていて、着席に手間取った。ひとの席を勝手に使うのはまぁいいとして、最後は元通りに直せよな。誰だよ、向き変えたの。

「おはよう」

「……おまえかぁ」

「カーディガンの色が昨日と違うね」

「というかおれかぁ……そういや昨日話したねぇ、柿崎くんよぉ」

「恒佑でいいよ」

「はいはい、恒佑。おはよぉ」

 前の席の男子の背に隠れるようにしながら、手櫛で前髪を整える。シールでデコレーションを施してある手鏡には、いまひとつきまりきらない顔が映っていた。

 口角を上げてみる。目を細める。涙袋が膨らむ。大丈夫そうだ、おれは今日もちゃんと笑える。

 担任は時間割変更だけを告げて、あっさりと朝のホームルームを終えた。三者面談に関するプリントの提出は、直々に催促されるまで放っておこうと思う。

「ふあぁ」

 あくびをすると、真後ろから息の漏れるような音が聞こえた。笑ったのだろうか。

「なによ」

 身体ごと横に向けて、恒佑の机に肘をつく。机の主はぬけぬけと宣った。

「前から思ってたけど、あくびもくしゃみも大きいよね、璃空って」

「思ってても言うなや、そんなこと……んあぁ」

「……眠たいの?」

「んー……」

 恒佑がぱちりと涼しげな目許を瞬かせた。やばい、という直感が璃空の脊髄を走り抜ける。

「目が……」

「あ?」

「目のふちが赤いけど、平気?」

 息が詰まるような感覚を覚えた。どうしてこいつは、こうなのだろう!

「……ただの寝不足。ほっといてよ」

「そっか」

 やおら目を伏せた恒佑の表情は、ほんの少し悲しげに歪んでいた。

 冷たい口調で突き放されたことが悲しいのではない。璃空がうそをついていることまでは見抜けるのに、うその本質や意図がまるで見えてこないことが切なく、歯痒いのだ。


 早く会話を終わらせたかった。そのはずだったのに、璃空は気がつけば、席を立とうとする恒佑の右手首をがっしりと掴んでいた。

「わ……どうしたの?」

「どこ行くの」

「購買、の自販機だよ。あ、なにかほしいものがあるなら」

「おまえの目におれがどう映っているかわかんないけど……弱みを見抜いて笑ってもいいけど、クラスのやつらにはなにも言うなよ。おれの平穏な学校生活をぶち壊すな、絶対に」

 剣呑な璃空のまなざしに、言葉を遮られた恒佑は困ったように笑った。

「俺はきみのこと、なにも知らない。けれど、たとえいつかきみの秘密を知っても誰にも話さないし、笑わないって約束する」

 口は堅いほうなんだ。恒佑はそう言って微笑を浮かべた。

 恒佑の持つ控えめな雰囲気が、璃空の目にはひどく眩しく、清らかに映った。清らかで、優しくて、きっと自分に正直に生きている。自分はどうしたってこんな風には生きられない。それが、無性に悔しい気がした。

「……それはそれとして。走れば間に合うかな」

 はっとして、手首を解放する。

「あ、購買……呼び止めてごめん」

「ううん、自販機でお茶買うだけだから」

 細腕でも、握力は強いほうだ。恒佑の手首にうっすらとついたしまった指跡を見て、もう一度「ごめん」と呟いた。


 恒佑が教室を出て行ったあと、璃空は忸怩たる思いで瞑目していた。手のひらを開いて、握って。繰り返す。

「……」

 ぬるい人肌に触れた右手が、早朝の行為を生々しく思い出させてやまない。みじめで恥ずかしくて、なんだか恒佑にも申し訳なくて、嗚呼。

「……旅に出たい。誰もおれを探さないで」

 璃空は机に突っ伏した。一時間目の授業中、彼が起き上がることはなかった。

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