氷砂糖と星明かり
凪野 バゴ
高校二年・穀雨
教室というのは、アクアリウムに少し似ている。水草や気泡こそ見えないけれど、おれたちはみんな水槽の中に生きる熱帯魚で、お互いに関心があるふりをしながら結局己の保身しか考えていない。きらきらとプリズムを散らしながら泳いでいるようで、呼吸に喘いでいる。
そんなことない? 少なくともおれはそうだ。
「……うぅ」
ぴり、と頬の筋肉が引き攣れる感覚が今日も不快だ。愛想笑いって結構体力消耗するんだよね、という言えない本音は、紅茶豆乳とともに腹の底に飲み下す。
空になった紙パックを握ったまま、璃空は自身の机に上体を倒した。晴れた日の午後、六時間目の終了後。どうしたって眠い。組んだ腕に顔をうずめてからむずかるようにして横を向くと、一年次も同じクラスに所属していた級友が人の悪い笑みを浮かべて言った。
「真野ちゃんってよく寝るくせに、ぜんぜん身長伸びないよな」
「うるさぁい。ほっとけ」
「拗ねんなよ。その紙パック捨ててきてやるから」
「ほんと? ありがとー、おれおまえのことだーい好き」
「あ、うそくせー。すぐ調子乗るじゃん」
級友は言葉通り、璃空が手にしていた紙パックをごみ箱まで捨てに行ってくれた。あれで彼はこのクラスの中心人物であり、人好きのするいいやつなのだ。そして、璃空の本当など、当然のごとく知る由もない。
「ふあぁ」
お手本のような大あくび。机に突っ伏してまもなくすやすやと眠り込んだ璃空は、ショートホームルームの開始を告げるチャイムが鳴ったことにも気がつかなかった。
「──ねぇ」
「んー……?」
長い睫毛を二、三度瞬かせて、徐々に意識を覚醒させていく。何者かに触れられた感覚が背中に残っている。
のっそりと振り返ると、後ろの席の男が涼しい顔をして小首をかしげていた。
「ホームルーム、終わったよ」
「うわ、うそ。チャイムで起きるつもりだったのに」
壁掛け時計を見遣ると、放課の時刻から五分が経過していた。たっぷり十五分は寝ていたことになる。
「やっちゃったぁ、先生怒ってた?」
「呆れてはいたけど、みんながフォローしてたよ。真野は成長期なので許してやってって」
「おちょくりやがって……そもそもおれ、そこまでちっこくないし!」
こぶしを頭上に掲げれば、グレージュカラーのカーディガンの袖口がずるりと滑り落ちる。璃空の言うように、百六十八センチという背丈は男子高校生の平均身長と比較してもさして低くはないが、紳士服のLサイズが彼の身体にはいささか大きすぎるのも、ブレザーの下に着込んだカーディガンの袖がだぶついて余っているのもまた事実だった。
「そうだよね⁉」
「カーディガンのサイズが合ってないだけだと思うよ。でも、」
「はぁ~? これはオーバーサイズってやつだし」
「似合ってるからいいんじゃないかな」
「え……はぁ、どうも……」
似合っている、は誰に言われても照れる。対する後ろの席の男は特段表情を変えることもなく、流れるような手つきで璃空に数枚の更半紙を手渡した。
「これはさっき配られたプリント。三者面談の希望日を書くプリントはすぐ保護者に渡して、今週中には提出してほしいらしい」
「わぁ、おれの分も取っといてくれたんだ。ありがと」
もうそんな時期ですか。そう言ってへらりと笑う璃空の顔を一瞥した彼は、秋浪な目許をかすかに歪ませた。
「疲れてる?」
「なにさ、急に」
受け取った更半紙を豪快にリュックの中へ突っ込みながら、璃空は乾いた声色で笑う。
「……眠たいだけだよ」
言うなり、学校指定のサンダルを気怠げにつっかけて立ち上がった。
「柿崎くんってなかなか面白いことを言うね」
「俺の苗字、知ってるんだ」
「知ってますよぉ。クラスメイトの苗字は大体憶えてますので」
「俺もきみの名前は知ってるよ。りく……瑠璃色の璃に、空也上人の空で、りく」
「く、……空也上人って。あはは!」
心底愉快だとばかりに笑い、やがて笑いすぎたせいで痛む脇腹を押さえた璃空は、再び自席に腰を下ろした。椅子の座面を廊下へと向けて、話し相手のほうへ軽く身を乗り出す。
「合ってるけど、もっとわかりやすいのがあるでしょーが。青空の空とか、空白の空とか」
「確かに」
「でもさ。みんなおれのこと真野ちゃんって呼ぶじゃん? 久しぶりに下の名前で呼ばれてちょっとどきっとしちゃった」
色素の薄い肌と柔らかな髪、明るさと憂いの両方を含んだ瞳。璃空はアイドル然とした、中性的な面立ちをしていた。
しかしかわいいと評されることを嫌い、他者評価をあまり信じない性質である彼は、懲りずにこういった過ちを犯し続ける。過ちとはつまり、冗談と取るのが惜しいと感じさせてしまうような冗談を、無自覚的に口にすることだ。
とはいえ今回は相手も相手。いま璃空が相対しているのは、マイペースが服を着て歩いているような男だ。彼は璃空の冗談など意に介する風もなく、大きく伸びをしながら言った。
「綺麗な名前だなと思って、憶えてたんだ。それにきみの雰囲気にぴったりだ、その響き」
「はっ、はっは……ねぇ柿崎くんって普段からそんな感じなの? 意外なんだけど」
「そんな感じとは?」
「口説き文句っぽいことサラッと言っちゃうその感じだよ!」
「そんなつもりはないんだけどな」
「そうだろうともさ。まぁね、優しいのは大いに結構だけど、勘違いしちゃう子は多いと思うから気をつけなよ。女の子ってこわいぞぉ」
後ろの席の男もとい『柿崎くん』──柿崎恒佑の机上に頬杖をついて、璃空はニッと笑った。つられるように、恒佑も息で笑う。
璃空はこのとき初めて恒佑の顔をまじまじと眺めたが、クラスメイトになって約一か月、これまで気づかなかったのが不思議なほどに恒佑の目鼻立ちは整っていた。彼が目立たないのは、穏やかすぎる雰囲気のせいだろうか。恒佑とは、昼間の星のような人間だった。
さて、今度こそ帰路につかねばならない。放課後はほとんど毎日、家が経営している洋食屋の手伝いをしているのだ。通学に使っているバスの本数は少なくないが、帰宅は早いに越したことはないだろう。
じゃあね、と別れを告げようとしたとき、恒佑の右手が静かに動いた。
「え」
そうして、あろうことかその手指は璃空の耳のふちに触れて。
「……っ」
璃空は肩をびくりと震わせて、呼吸を詰まらせた。彼の耳朶を貫いたピアスホールは、校則違反という点を除けば、それ自体に隠さなければならない疚しさなどない。
しかし、いま璃空は慌てて左耳を隠した。己の本質を見透かされてしまうことが恐ろしかったのだ。それほどまでに恒佑のまなざしは透明で、透明ゆえに鋭かった。
「あ……ごめん。意外だなって、気になって」
「なんなのもう。びっくりするじゃん」
ため息をつき、望んで開けてからもう何年も経つピアスホールを指の腹で撫ぜた。璃空にとってはこの穴こそが己で、一生塞がらなくてもいい傷痕だ。
「学校ではなにもつけないから、別にいいでしょ」
「責めてないよ。ただ……」
「ただ、なによ」
「そこに飾りが着けられたところも、見てみたいなと思った」
恒佑の飄々とした一言に璃空の大きな目がさらに大きく見開かれ、たちまちすぅ、と細められる。
「柿崎くんさぁ」
「恒佑でいいよ」
「恒佑さぁ、おれのことガチで口説いてる?」
「……? そんなつもりはないんだけどな」
「知ってる~。こういう誤解されるのが嫌なら、ラブソングの歌詞みたいな台詞はほいほい言わないこと。ね、わかった?」
カーディガンの袖をたくし上げながら立ち上がった璃空は、恒佑を振り返った時には後腐れない笑みを浮かべていた。
「プリントありがとー。また明日!」
「……うるさいひとだったな」
恒佑はすっかりひとけのなくなった教室の隅で、教科書を鞄にしまいながらひとりごちる。
真野璃空はジェリービーンズを彷彿とさせる、実にビビッドな人間らしかった。予想にたがわずというか、予想以上に。
恒佑にとって璃空は、もともと目を引く存在だった。いつでもクラスの中心にいてけらけらと笑っているのに、時折年齢に不釣り合いなほどおとなびた表情をするからだ。
なにかにくたびれているならそう言えばいいのにと思う。きっと簡単にはそう言えない理由があるのだとも、思う。
泣き暴れて疲れた子どものようにこんこんと眠る璃空のことを、恒佑は進んで起こす気にはなれなかった。
きみはそう、うるさいひとだ。けれど、きみのことがどうにも気になる。
好きなものを、苦手なものを、きみがなにに喜びなにに悲しむのかを、俺に少しずつ教えてほしい。立派な理由なんかないけれど、理由がほしいならそれらしいものをいくつか用意できそうだ。そんなことを言ったらきみは、懲りないなと呆れるだろうか。
彼が座っていた椅子の向きは、なんとなくそのままにしておいた。
明日もまた、話せたらいい。
********************
苦手ならたくさんあるけれど、あえてひとつだけ挙げるとするならば、素肌に触れられるのが苦手だ。他人に触れられるためにある肌でも、他人と分かち合うための体温でもない。
そして、よりにもよって、耳。
柿崎恒佑は、初対面にしておれの地雷を思い切り踏み抜いたわけだ。
「ほーらどいたどいた。あんた、もう上がりでしょ」
エプロンのリボンを後ろ手で結びながら近づいてくるアルバイトの日菜を一瞥するなり、璃空はふんと鼻を鳴らした。
「まだ五分ある」
「いいのいいの。オーダーも落ち着いてるみたいだし、現にあんたもキッチンにいるじゃない。高校生の本分は勉強なんだから、さっさと帰って予習復習でもしときなって」
大学生の本分だって勉強だろう、それに帰るったっておれの家すぐ隣だし……とよほど言い返したかったが、やめておいた。日菜に口ごたえしたとて、璃空に勝ち目などない。
丹下日菜が真野家の経営する洋食屋でアルバイトを始めて三年になる。ポニーテールが似合う快活な彼女は璃空を本当の弟のようにかわいがっており、璃空もまた彼女を実姉のように慕っている。慕ってはいるが、彼女の気の強さをうざったく感じる瞬間もままあった。
食器を食洗器から取り出しながら、秒針の音を聴く。控えめな音量で漂っている音楽はジャズなのかブルースなのか、なんにせよ毎日似たり寄ったりの曲調だ。
「なに、なんか……目がぼーっとしてない? また風邪でもひいた?」
「……ひいてない、なんでもない」
「あ、わかった。恋だな」
「はぁ?」
き、とにらみつけると、日菜は処置なしとばかりに肩をすくめた。
「冗談よ。……でもほんと、いつになったら治るの? あんたのその、恋愛アレルギー」
「治んなくても丹下さんには関係ないでしょ」
「そりゃあ関係はないけどさぁ」
もったいないよね。
日菜はそう言うけれど、もったいないなどという言葉をかけられる筋合いはなかった。単純に話題そのものが不愉快なので、璃空は吐き捨てるように言った。
「恋愛なんか、おれの人生にはいらないんだよ」
「……まぁ、ね。よくわかんないけどさ」
壁掛け時計を見遣る。二十時、シフト交代の時間だ。日菜は大きく伸びをして、璃空もそれを真似た。
「一応訊くけど、もったいないってなにが?」
よせばいいものを、璃空は訊いた。口論を避けたいところではあるが、日菜のする話に耳を傾ける価値を見出してはいるのだ。小さく首をかしげれば、小さなフープピアスが揺らめいた。
「え? なにって……そのかわい~いお顔よ。その気になれば誰だって落とせるはずなのに。宝の持ち腐れよね、まったく」
璃空はぱち、と睫毛を瞬かせた。言葉の真意は意外なものだったし、日菜らしいといえばそうだった。
「なんだ、そっち。てっきり、恋愛したがらないのをもったいないって言ってるのかと思った」
「やーね、恋愛するもしないもひとの勝手でしょ。あたしはただ、あんたの顔がうらやましいだけ~……端的に言えば嫉妬! 笑うがいいわ! 昨日の合コンも収穫なしよ!」
ひく、とひきつる璃空の口許。璃空には想像のつかない世界の話だが、元気なのはなによりだ。
日菜は手際よくオリーブオイルと刻み玉ねぎ、特製シーズニングを取り出した。トマトサラダにかけるドレッシングを作るのだろう。
ぐるるる。お腹がいよいよ物悲しい音を立て始める。璃空の足が勝手口へと踏み出した刹那、「でも、あたしさ」という声が聞こえてきた。
「余計なお世話かもしれないけど、デリカシーないって言われても仕方ない気もするけど……恋してもいいって思えるくらい素敵なひとが、あんたの前に現れたらいいなって思ってるよ」
「……まじで余計なお世話。ひとの心配してる場合かよ」
「うるっさいわね。で、今日なんかあった?」
「なんにも!」
撥ねつけるような返事をして、外に出る。春の夜の空気は冷たくて、馥郁とした土の香りがした。
なにかあったのかと問われれば、あったのだ。
胸のあたりがきゅうと締まって、呼吸を忘れた。アクアリウムの昼下がり。まっすぐな瞳。おれの名前を呼ぶ、さざなみみたいな声。
「……なんなの。……なんなの?」
しゃがみこんで、大きく息をつく。ピアスホールがかぁ、と熱を帯びたことには、気づかないふりをした。
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