第15話 枯れ梅は舞い、愛と臣を告げる日

 三皇子府に移り住んでからの一週間。

 秋音シュウインの胸を満たしていたのは、これまで味わったことのない解放感だった。沈府よりも、ましてや宮よりも――比べものにならないほどの「自由」。

 庭をぶらぶら散歩しても誰にも咎められず、書庫にこもっても誰にも急かされない。市場に出れば、景澄ケイチョウが子犬みたいに後ろからぴたりとついてきて、秋音が「あれ欲しい」と指を差すたびに、嬉々として抱えてしまう。


 丈量の日。仕立て屋が景澄ケイチョウの衣寸を測っているのを、秋音シュウインはぼんやり眺めていた。気がつけば、その広い肩幅に見とれてしまっていた。

「旦那さまとおそろいで、奥さまの衣も同じ布で仕立てましょうか?」

 茶目っ気まじりにそう囁かれた瞬間、秋音の耳はかぁっと熱を帯びる。

 そして――景澄は一拍の迷いもなく「ぜひ」と頷いた。

 ……もう逃げ場なんてない。「おそろい」決定だ。


 また別の日、二人だけの「秘密の合言葉」を決めることになった。

「私が『お粥食べた?』って聞いたら、それはお客さんが来たって合図ね!」

「じゃあ私は『パクチーは入ってない』って答え。……それで『安全確認完了』ってことでどう?」

 視線を合わせて吹き出す。子どもの秘密遊びみたいなのに、やけに楽しくて仕方ない。


 そんな毎日を重ねているうちに、二人の距離は信じられないくらいの速さで近づいて、屋敷は甘く温かな空気でいっぱいになった。

 そして――迎えるのは「新府祝いの宴」。

 はじめて人々を招き入れ、「家」として世に示すその日。

 ふたりの急ぎ足の恋は、ここで一度現実に引き戻されることになる。


 三皇子府の大広間は、この日のために金と朱で華やかに飾り立てられていた。壁には龍鳳の刺繍を施した錦が掛けられ、天井からは幾つもの燭台が吊るされ、まばゆい光を放っている。列席するのは朝廷の重臣から沈家の縁者、さらには都の名士に至るまで――まさに「三皇子府の門出」を天下に示す宴であった。


 楽師たちの奏でる雅楽に合わせて、舞姫たちが優雅に舞う。秋音シュウイン景澄ケイチョウの隣に座らされ、次々に寄せられる祝辞に笑顔で応じていた。だが、ある一言が場の空気を一変させる。


沈尚書シンショウショは幸せ者ですな。三殿下に娘を嫁がせ、新府の力まで得られたのですから……」

 重臣の笑みは穏やかだが、その声音にはあからさまな皮肉が混じっていた。


 すぐに別の者が続ける。

「しかし、皇子の妃が沈家出身とあれば……権勢を独り占めするのではと世間が囁くやもしれませんな。」


 秋音の笑顔は一瞬で凍りついた。父・沈尚書も扇を膝に置いたまま黙り込み、場の空気はぴんと張り詰める。高座にいる皇帝は、皇后と杯を交わしながらも、その鋭い視線を沈家の方へと注ぎ続けていた。


 その時、華やかな衣をまとった古清霜コシンショウが盃を傾け、わざとらしい笑みを浮かべて言い放つ。

「沈家のご令嬢はたしかに聡明でお美しいけれど……沈家は朝廷随一の権勢を誇る家。政略の匂いが強すぎはしませんか?」

 周囲の貴族の娘たちも、扇の陰で囁きを交わす。

「妃殿下はただの政略婚よ!」

「本当に殿下にふさわしいのは、清霜コシンショウ様ではなくて?」

「結局は陛下の婚約に従っただけ、愛情なんてないでしょう!」


 ――まるで、以前見かけた流れるコメントのよう。

 あれ、そういえば最近はコメントを見ていない。そう考えると、あの現象は大事な場面にだけ現れるもの……ってことは、この宴はむしろ無関係?


 秋音がぼんやり疑問に囚われていると――景澄ケイチョウがゆっくりと盃を手に取り、澄ました笑みを浮かべた。

「……ならば、その囁きを今日この場で鎮めよう。」

 彼は盃を高く掲げ、真っ直ぐに秋音を見据えて、はっきりと言い切る。

「私が望んだのは沈家ではない。婚約で得をしたのは沈家でも政でもない――私だ。私は子どもの頃からずっと、秋音シュウインただ一人を望んできた。」


 ざわっ――と広間が揺れる。

「殿下が、沈家ではなく……娘本人を?」

「公の場でそこまで……!」

 秋音の頬はみるみる朱に染まる。


 でも不思議じゃなかった――景澄なら、きっとこう言う。愛を隠さず、真っ直ぐに示してしまう人。それが、謝景澄なのだ。


 古清霜コシンショウの目は怒りで大きく見開かれ、紅玉のようにぎらぎらと輝いていた。


 その時――秋音シュウインの目の前に、突然コメントが高速で流れ始めた。

『皇帝が怒り出すぞ!』

『景澄はこれでまた罰だな!』

『枯れ梅、腐れ梅――皇后が激怒するぞ!』


 ……枯れ梅?

 秋音は思わず眉をひそめた。自分も景澄ケイチョウも、そんな不吉なものを仕込んだ覚えはないのに。


 視線を落とせば、舞姫たちが精巧な木箱を一つずつ捧げ持って入場してくる。それは皇帝と皇后に捧げる、三皇子府からの献上品のはずだった。

 紅い絹に包まれた箱が開かれる。

 ――中に収められていたのは、乾ききった梅の枝。


 広間にざわめきが走る。

「……枯れ枝だと?」

「縁起でもない!」

「しかも梅……皇后の実家は『梅』姓だろう?」

「これは呪詛では――」


 景澄ケイチョウも意外そうに眉をひそめ、沈尚書シンショウショの顔はさっと青ざめる。沈夫人シンフジンは扇を固く握りしめ、息を呑んだ。


 その時、秋音シュウインが静かに立ち上がり、ゆるやかに席を離れる。

「皆さま、どうかご慌てなさらぬよう。」

 彼女は枝をそっと手に取り、澄んだ声で続けた。

「この梅は枯れているのではございません――冬を越え、やがて新しい芽を出す準備をしているのでしょう。厳しい寒さに耐え、春に花を咲かせる梅ほど強いものはありません。むしろ、吉兆にございますわ。」


 秋音シュウインは両手で梅の枝を抱くように掲げ、深く一礼して高座の皇帝と皇后に示した。顔を上げると、ふわりと微笑む。

 次の瞬間――手首をしなやかに返し、枝を優雅に掲げ上げる。左脚を軽やかに後ろへ蹴り出し、そのまま流れるように舞い始めた。


 纏う衣には「雀金じゃくきん」の紋様。孔雀の羽を思わせる青と緑が金糸のきらめきと溶け合い、ひと振りごとに光が尾羽のように広がって見える。煌めく織りの一線一線が、舞のたびに命を持つかのように揺らめいた。


 突如始まった舞に、舞姫たちは動きを止め、楽師たちも音を途切れさせる。広間には張りつめた静寂が落ちた。


 だが秋音は止まらない。


 その時、景澄ケイチョウがすっと立ち上がり、古筝こそうの前にいた楽師を下がらせ、自ら弦に指を置いた。


 爪弾かれる旋律は澄んだ水の流れのよう。さらさらと月明かりを思わせる音色が、静まり返った広間に広がっていく。


 秋音は枝を高く掲げ、両腕を伸ばしたままつま先立ちでくるくると旋回した。

 衣の雀金が光を散らし、羽ばたく鳥の群れが宙を舞うかのように見える。その姿はまるで神に供物を捧げる巫女のように神秘的で――見る者の息を奪うほどに美しかった。


 旋律と舞はひとつに溶け合い、広間の誰もが声を失い、ただ見惚れるしかなかった。


 やがて音が止み、舞も終わる。

 景澄は秋音のそばへ歩み寄り、その手を取り、共に深く一礼した。

「父上、母上……どうかこの舞をお受けくださいませ。」

 そう告げて微笑む二人の姿は、まるで絵巻の一場面のように麗しく、場の空気を一変させていた。


 皇帝と皇后は面白そうに目を細めたまま、しばし黙っていた。

 いったい陛下がどう思っているのか、誰にも読めない。


 そのあいだ、下座からはひそひそと囁き声が漏れる。

「でも、官家のお嬢さんがあんなふうに舞うなんて……舞姫みたいじゃない?」

「そうそう。もう皇子妃なのに、あれはちょっと軽率よね。」

「色っぽすぎて、殿下や沈尚書さまに恥をかかせてるんじゃないの?」


 ――広間に漂う冷たい空気。


 ところが突然、皇帝が沈尚書と目を合わせたかのように、手を打ち鳴らした。

「よい、よい! 実に見事だ。朕は気に入ったぞ。褒美を取らせよ!」


 沈尚書もすぐに笑みを浮かべ、声を張った。

「まさか、わが娘があれほど舞えるとは……父としても驚きました。しばらく言葉が出なかったほどです。」


 ふたりが口を開いた途端、林蕭リンショウが林将軍の席でさりげなく拍手を始める。

 彼がすでに三皇子府の配下になったことを知るのは、皇帝ただひとり。

 周りの賓客たちは「林将軍も娘を称えている」と勘違いし、次々に手を打ち鳴らした。

 気づけば広間は、大きな拍手と笑い声に包まれていた。


 秋音シュウインは緊張で両手をぎゅっと握りしめた。

 すぐそばで景澄ケイチョウが、その手をそっと包み込む。爪が食い込んでしまわないように、強く、温かく。


 ――もし、あの流れるコメントがなかったら。

 きっと私は今ごろ景澄と一緒に跪き、必死に弁明していたに違いない。

 ……思えば、いつも腹の立つだけだったあのコメントも、無駄じゃなかったのかもしれない。


 けれど、私と景澄はただの夫婦や恋人じゃない。

 自分のことだけ考えて突っ走るわけにはいかないし、油断ひとつが命取りになる。

 狙っている者はいくらでもいるのだ。私たちだけじゃなく、父と母までも。三皇子府の侍衛や侍女たちの命だって――


 秋音は横を向き、景澄を見上げた。

 彼もまた、どこか申し訳なさそうに視線を伏せていた。

 その眼差しは「ごめん」と語りかけているようで、深い後悔と痛みをにじませていた。


 皇帝はふいに高らかな声を響かせた。

「朕はそなたらの舞を大いに気に入った……だが、ひとつ気になることがあるぞ。聞けば、夫婦揃ってこの一週間、学堂に顔を出しておらぬとか?」


 本来なら、父が子と嫁に私的に諭すべきこと。だが、玉座に座しているのは「父」ではなく「皇帝」だった。衆目の前で言い放たれれば――この一週間の甘えが、どれほど身勝手なものかを突きつけられる。秋音シュウインは胸の奥で、そう思わずにはいられなかった。


 景澄ケイチョウはすぐに立ち上がり、拱手して膝をついた。

「父上。新婚につき、私が秋音に甘えて数日休ませてしまいました。咎はすべて私にございます。どうかお許しくださいませ。」

 そう言って額を床に打ちつけ、一度しっかりと叩くと、顔を上げて真っ直ぐに続ける。

「明日よりは必ず学堂に参ります。ただ……秋音はすでに宮を離れ、三皇子府に入りました。後宮の学堂に通わせるのはあまりに不便。どうか父上、そして沈尚書シンショウショ――秋音の学びは免じていただきたく存じます。」


 ……こんな時でさえ、彼は私を気遣ってくれる。

 宮中の煩わしい礼法など覚えさせまいと、少しでも楽にしてやろうと。

 その思いに胸が締めつけられる。

 だが、皇帝は眉をひそめた。

 まるで「皇家の嫁が無学のままでどうする」と裁くような厳しさで。

 景澄ケイチョウがなおも口を開こうとしたその時――私は、ただ傍観者のようにこの光景を見ていた。


 そして、秋音シュウインもまた膝を折り、共に跪いた。

「父上、そしてお父様……」

 声はわずかに震えていたが、はっきりと響いた。

「私は幼いころから遊ぶのが好きで、父上はおっしゃいました――『いずれお前は我が嫁となる。父は我が一番の友だから、必ず守ってやる』と。

 その言葉通り、私は幸せに、楽しく育ちました。

 今、景澄がしてくれているのも、まさに同じことです。けれど景澄はその幸せを知らずに育ちました。だから、私だけがその幸せを独り占めするのは嫌なのです。」


 秋音シュウインは顔を上げ、強いまなざしで言葉を紡いだ。

「後宮の学堂には通いません。三皇子府を切り盛りせねばなりませんから。けれど、その代わりに白夫子ハクフウシ柳嬤嬤リュウぼぼを府へ呼び寄せていただきたいのです。

 ……臣は欲張りにございます。礼も学も、すべて身につけたいと願っております。」


 それは公然とした甘えであり、寵愛を笠に着た振る舞いにさえ見えた。

 けれど同時に――初めて自らを「臣」と称し、三皇子の隣に立ち、共に野心を抱く女であることを、誰の目にも明らかに示す言葉だった。


 ーーーーーーー

 後書き:

 ここから、ついに養成系(!?)ヒロイン・秋音シュウインが覚醒していきますよ~

雀金じゃくきん」の由来や解説はこちらにまとめました:

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792440691630559

 本当は今日、秋音の舞のイラストを仕上げたかったのですが……正直、色塗りが大変すぎて目がしょぼしょぼ😂 パソコンの画面がもう全部グリーンに見えるレベルです。

 なので、明日こそは「雀金をまとって枯枝の舞を踊る秋音」のイラストをお見せできると思います!

 それでは――明日も皆さんが元気で楽しく過ごせますように💐

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