第16話 女の意地、妻の覚悟~弱さを知り、強さを選ぶ時~

 新府祝いの昼の宴は、ようやく幕を閉じた。

 皇帝は秋音シュウインの最後の言葉にすっかりご満悦といった様子で、ひげをなでながらにこやかに立ち上がる。その横で、皇后はいつものように感情を見せぬまま、冷ややかな視線を広間に投げていた。


 重臣や名士たちもそれに続き、ぞろぞろと退出していく。別れ際に口にするのは笑顔混じりの祝辞――だがその響きはどれも薄っぺらく、景澄ケイチョウ秋音シュウインの耳には白々しくしか届かなかった。


 ――残ったのは、ほんの身内だけの宴。

 本来なら、新居に移った際の家宴こそが一番の晴れ舞台のはず。けれど皇家では、外に向けた「見せ物」としての宴こそが主役であり、内輪の席は二の次とされてしまう。

 景澄ケイチョウの父である皇帝は出席せず、母もすでにこの世を去っている。だからここに残るのは沈尚書シンショウショ沈夫人シンフジン、そして沈言シンゲンだけだった。

 帰り際、林将軍リンショウグンはふと足を止め、にへらと笑ってばかりいる息子・林蕭リンショウを振り返った。

「……まったく、しょうのないやつだ。」

 苦笑をひとつこぼしたあとで、結局は彼をその場に残すことを許した。


 だが家宴が始まってすぐ、沈尚書シンショウショ秋音シュウインを連れて書斎へと向かった。

秋音シュウイン。お前は今日、なぜあのような発言をしたのだ?」

 普段は口を出さぬ沈尚書シンショウショが、珍しく厳しい顔をして切り出した。


「お父様……もし私が『自分でも分からない』と言ったら、怒りますか?」


「戯れ言を!」沈尚書シンショウショは手を振り払うようにして声を荒らげる。「沈家シンケは決して、儲君チョウクン争いには関わらぬと決めているのだ!」


「お父様……でも、景澄ケイチョウがあまりにも哀れではありませんか。誰ひとり、景澄ケイチョウのために争ってくれる者がいないのです。」

 秋音シュウインは真っ直ぐに沈尚書シンショウショの目を見据え、ゆっくりとそう告げた。


 沈尚書シンショウショの目がぱっと見開かれ、信じられないといった表情で問うた。

「お前は……景澄ケイチョウを好いていないのではなかったのか?あれほど多くの和離カリの書を調べていたのは、てっきり彼と別れるためだとばかり……」


「お父様……どうして私がそんな本を読んでいたことをご存じなのですか?」

 秋音シュウインは眉をひそめ、問い返した。


「……それは――」

 沈尚書シンショウショは答えを濁すように背を向けた。


 秋音シュウインははっとしたように表情を変え、ぎゅっと唇を噛んだ。

「お父様は朝堂の争いや儲君チョウクン争いには加わらないと決めていらっしゃった。けれど、それでも私を謝景澄シャケイチョウに嫁がせた……つまり、お父様は最初から私が和離カリすると踏んでいて、その時こそ手を貸すつもりだったのですね!」


 拳を握りしめ、秋音シュウインは言葉を続ける。

「お父様は皇命に逆らえず、皇帝の友として命令を拒むこともできなかった。だから私がどれほど声名を汚そうと、気にも留めなかった……そういうことなのですか?」


 沈尚書シンショウショは慌てて振り返り、娘・秋音シュウインの頬を伝う一筋の涙に気づいた。

「違う、秋音シュウイン。違うのだ。お父様は決して、お前の幸せを犠牲にするつもりなんてなかった。皇帝にも内々に掛け合ったが……皇命にはどうしても逆らえなかったのだ。

 だから本気で考えたのだぞ。官を辞して遠くへ逃れることも、死罪を免れる勅符チョクフを手に入れて退路を確保することも。もし誰かが『一度和離カリした女だから』とお前を卑しむなら――そんな相手は良縁ではない。お父様が必ず、一生お前を守り抜くつもりだった!」


 そう言って、沈尚書シンショウショ秋音シュウインの肩に両手を置き、優しく叩いた。

「だが……景澄ケイチョウが私のところに来たのだ。彼は、お前を心から愛していると告げてきた。どうか機会を与えてほしいと。

 お父様も彼を半ば息子のように見てきたから分かる。景澄ケイチョウは本来、純真で真っ直ぐな子だ。ただ皇家の中で生き延びるために、本心を隠しているだけなのだ。

 だから私は彼と約束した。もしお前が和離カリを望むなら、潔く手放すと。けれど望まないなら――彼は命を懸けてでも、お父様に代わって一生お前を守ると。」


 そのとき、沈夫人シンフジンが扉を押し開け、冷たい笑みを浮かべた。

「――やっぱりね。男ってみんな、自分だけが正しいとでも思っているのね。」

 鋭い眼差しで沈尚書シンショウショを睨みつける。


 秋音シュウインもまた同じだった。沈尚書シンショウショ景澄ケイチョウの想いに胸を打たれるよりも、むしろ腹の底に湧いたのは、自分だけが知らされずにいたという怒りだった。

「お父様に……それからおっとである景澄ケイチョウ。二人して、女はただ守られているだけでいいと思っているのでしょうね!」


 沈尚書シンショウショは目の前に立つ二人の女に怯んで、思わず身を震わせた。

 そして――扉の外で様子を窺っていた景澄ケイチョウもまた、びくりと身をすくませるのだった。


 沈夫人シンフジンはためらいもなく書斎の正座に腰を下ろした。

 沈尚書シンショウショは慌てて茶壺を手に取り、湯を注いで差し出す。

「冷めたお茶なんて、私は口にしませんよ。」


「はは……では、すぐに淹れ直してまいります、夫人。」

 沈尚書シンショウショは愛おしそうに口元を緩め、甘く笑いながらそう答えた。


 そう言って扉を開けると、ちょうど景澄ケイチョウが立っていた。


 沈夫人シンフジンは軽く手を振る。

婿殿むこどのにここまで送らせたのです。」


 沈尚書シンショウショはうなずき、盆に載せた茶碗を景澄ケイチョウへ差し出した。

 景澄ケイチョウは小さく会釈し、慌ただしく侍衛・五に湯を替えるよう命じた。


 沈尚書シンショウショはそっと扉を閉じた。

夫人フジン秋音シュウイン。お前たちは私の手のひらに載せた宝だ。必ず守ってみせる!」


 秋音シュウインは何も言わず、ただ顔をそむけた。


「――話し合いもなく一方的に守られるなんて、私たちには耐えられませんわ!」

 沈夫人シンフジンもまた、同じように顔を背ける。


「……そ、それは……」

 沈尚書シンショウショは言葉に詰まり、どう返せばいいのか分からずにいた。


秋音シュウイン。なぜ今日、あのような言葉を口にしたのです?」

  沈夫人シンフジンは穏やかな声を保ちながら、扇子の先で机を小さく叩いていた。

「私はお父様とは違い、儲君チョウクン争いなど気にはしておりません。けれど景澄ケイチョウが私の娘を迎えた以上、彼はもう我が子も同じ。子に与えるものは、すべて最上であって当然です。

 仮に景澄ケイチョウ儲君チョウクンを望むなら、私の母家も沈家シンケも力を尽くすでしょう。……けれど、彼は一度として私やお父様にその想いを語ったことがない。あなたは今になって、彼のために争おうというのですか?」

 扇子の音が、ぱた、ぱた、と響く。


「お母様……私はそこまで先のことを考えてはいません。ですが、お父様チチウエは口では『関わらぬ』とおっしゃりながら、私が皇家に嫁いだ時点で、もう巻き込まれていたのです。

 何もしなくても、今日のように枯れ枝をすり替えて陥れようとする者は現れるでしょう。私と景澄ケイチョウは夫婦である以上、沈家シンケ景澄ケイチョウは一体の存在。……言い換えれば、景澄ケイチョウには私たちを切り捨てることだってできるのです。幸いにして、彼はそうはせず、私を大切にしてくれている。

 ――そして今日、私は気づきました。私が弱いからこそ、枯れ枝のような稚拙な計略でも通ってしまう。弱いからこそ、読む本や学ぶことにまで干渉される。もし私に力があれば……誰ひとり、そんな真似はできないはずです!」


 秋音シュウインは小さく笑みを浮かべ、母の袖を揺らした。

「だから私は、自分のために気丈でありたい。そして景澄ケイチョウのためにも、一度は争ってみたいのです。どうして私が、彼の弱点でなければならないのでしょう。」


 扉の外に立つ景澄ケイチョウの目が、次第に潤んでいく。

 彼は気づかれぬよう、わざと何でもないふりをして額に手を当て、天井を仰いだ。けれど、巡邏していた侍衛・三は見てしまった――頬を伝い落ちる涙を。


 ――退くか進むか。

 彼は秋音シュウインが退くと思っていた。せっかく一週間かけて近づいた距離は、また遠ざかってしまうだろうと。だが、彼女が選んだのは「進む」ことだった。


 秋音シュウインは扉の隙間から景澄ケイチョウを一瞥し、同時に傍らの父を見やった。

「もちろん、私はただ全力でやってみたいだけです。でも……もし共に歩むことが叶わなくなった時には、その時はどうか、尚書ショウショ様――和離を助けて、きれいに終わらせてくださいませ。」

 そう言って扉を開け放ち、景澄ケイチョウに向き直る。

景澄ケイチョウ……今夜からは、別々の部屋で休みましょう!」


 彼は目を見開いた。

 ――これは退きなのか、それとも進みなのか。

 関係は一歩進んだはずなのに、なぜか遠ざけられた気がして、寂しさが胸に滲んだ。


「もし本当に恋を望むのなら……少し距離を置いて、あなたを、そして自分の心を見極めたいのです!」


 その言葉が響いた瞬間――夜空を震わせるように、轟音が鳴り渡った。

 光の束が勢いよく天へ駆け上がり、黒い天幕を切り裂く。

 やがて花びらのような火花が幾重にも重なって広がり、赤、蒼、金の光が夜を染め上げた。

 瞬き、零れ、また散り、静かな闇に溶けていく煌めきは、まるでふたりの胸の奥に芽生えた決意と戸惑いを映すかのように。

 涙に滲んだ景澄ケイチョウの瞳に、光の花が幾度も咲いては散った。

 そのひとひらごとの輝きが、ふたりの心に甘く染み入っていった。


 ーーーーーー

 後書き:

 言い忘れていましたが、昨日の第15話で描いた秋音の舞のイラストはこちらです〜

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792440720683883

 雀金は自分なりのイメージで描いてみましたが、やっぱり本物が残っていたらきっともっと美しかったんだろうなと思います。残念ながら実物は現存していませんね。

 みなさん、明日も気持ちよく過ごせますように~

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