8 日原ダンジョン突入 刻まれし疵 深く沈殿す
日原ダンジョンにたどり着いた剣奈は辺りを見回した。春休み初日というのに人影は少なかった。都内では当たり前のように見かけるインバウンド観光客の姿が、ここではほとんど見当たらなかった。冷たい渓谷の風が山肌から吹き下ろしていた。吉祥寺の春の空気とは異なる肌寒さを感じた。剣奈はリュックに手を伸ばし、シャツにセーターを重ね着した。
「さっぶっ!お母さんすごい。なんで来てもいないのにこんなに寒いってわかるの?厚着、厚着って何度も言われて…… うるさいなぁ、ボク男の子だから平気なのにって思ってたけど……お母さんが正義だった……」
心の底から千剣破への崇拝のギアをさらに上げてしまった剣奈であった。千剣破は偉大であった。
谷を流れる清流の音が響いていた。ダンジョンへのは小さな橋が架かっていた。上流をみると滝が見えた。石灰岩の岩壁に囲まれたダンジョンへの入り口はまるで異界への扉のようだった。
剣奈は財布を取り出して入り口の受付でチケットを購入した。玉藻九百円、剣奈六百円だった。チケットには日原鍾乳洞と書かれていた。裏面には「洞内は一年を通して気温十一度、冷えるので防寒着要」などの注意事項が記されていた。
千剣破はこの情報を事前に入手して剣奈に厚着をすすめていたのだった。もちろん山は平地より寒い、奥多摩は寒いという知識も千剣破の脳内会議では提出されていた。千剣破おそるべし。
金狐『平日だから空いているわね』
巫っ子『うわぁ。ついにボクの、ボクのダンジョン冒険が始まるんだ!』
白蛇『小娘よ。鍾乳洞は寒いらしいぞよ?震えて鼻水まみれでも泣きつくでないぞ?』
巫っ子『へへん。ボクはお母さんの指南があるもん。だからボク、大丈夫だもん!』
古刀『千剣破殿は頼りになるからの。剣奈は実に良い母御を持った』
そして剣奈たちは日原ダンジョンの入り口に立った。山肌に……ぽっかりと穴が開いていた。入り口には堅牢な金属扉が見えた。淡い灰色の階段がダンジョンへの入り口に続いていた。
巫っ子『うわっ、ダンジョンゲート!ほんとだったんだ!さすが山木先生!』
古刀『剣奈よ、気を抜くでないぞ?ここが境界じゃ。現世と地底を隔てるな……』
巫っ子『クニちゃ!ボク、ボク、すっごくワクワクしてる。もしかして興奮してるかも!』
古刀・白蛇・玉藻『………………』
――えっ?いや。剣奈君?今頃自覚したのかね?君、ずっと興奮の極地だぞ?え?今頃なのか?
剣奈と玉藻は洞内の空気を感じつつ狭い通路を進んだ。春休みのダンジョン内は肌寒かった。気温自体は外気と変わりはなかった。しかしその暗い雰囲気、独特の湿気、岩肌から立ち上る冷気、それらが実際以上に寒々とした空気感を醸し出していた。
ダンジョンの天井は低かった。百二十九cmの剣奈は普通にさくさく歩いていた。しかし身長百六十五cmの玉藻はところどころ腰をかがめながら歩いていた。左右の岩が迫ってきていた。
人気が少ないことを確認した白蛇はこっそりとリュックから頭をのぞかせた。玉藻はそれに気づいていた。しかし暗い場所に封印され続けた経験を持つ玉藻は白蛇の行為を責める気にならなかった。ここならいいか。そう思ってスルーすることにした。人が近くに来たらすぐに釘をさすつもりではいたが。
巫っ子『すっごい……すっごいよ!ほんとにダンジョンだ!』
白蛇『妾、ぞわりとナニカを感じるぞよ……』
古刀『うむ。地脈の息吹。確かに感じる。地力、霊脈気が満ち満ちておる。水の気、大地の気、それら神聖な気が満ち満ちておる』
巫っ子『野島ダンジョンよりも広いね。暗いけど……怖いけど……すっごく楽しい……。あーあ。玲奈姉にも見せたいなぁ……』
金狐『ええ。玲奈さんをきっと助けましょ?そして一緒に来ましょ?この景色を……みんなで一緒に見ましょ?』
巫っ子『うん!』
カーン、ピチャン、カーン、ピチャン
右奥から水の音が聞こえた。「水琴窟」である。
「ヒッ」
剣奈が水音に反応してビビった。野島ダンジョン、篠に追いかけまわされておしっこを漏らしてしまったことを思い出したのである。剣奈は思わず股間を押さえた。
白蛇『おや?どうした剣奈よ。おしっこでも漏らしそうになっておるのか?同じダンジョン内じゃからの』
巫っ子『え?ど、どうしてそれを?』
白蛇『ワシもその場におったじゃろ?忘れたか?』
剣奈の顔が真っ赤になった。野島ダンジョンで腰を抜かし、おしっこを漏らしてしまった。それは絶対に知られてはならない秘密の黒歴史だった。それが……トリニティネットで全員に知られてしまったのである。
ポロリ……
剣奈の目から涙がこぼれた。それが羞恥の涙なのか、悔しさなのか、怖さなのか。剣奈自身もわかっていない。
「う、うううううぅ」
剣奈は立ち止まって右腕で目をこすった。
金狐『し、ろ、へ、び、ちゃん?』
玉藻が笑顔でリュックから頭を出している白蛇を睨んだ。睨んだ……
「ひっ」
白蛇は口から短い悲鳴をあげた。白蛇、実は白龍である。実際とてつもなく強い。天災レベルの災厄をもたらす能力を持つ。しかし……。玉藻は白蛇以上に齢を重ねた大怪異「九尾」なのである。白蛇は己が首が玉藻の蒼三日月刃で胴体と分かたれた錯覚に陥った。白蛇はパニックになってリュック内部に逃れた。
白蛇『じ、冗談じゃろ!わ、妾は場をなごませようとじゃな……』
金狐『し、ろ、へ、び、ちゃん?』
白蛇『剣奈ぁ、すまんかった!心から詫びる!じゃから……じゃから……妾を助けてたもれ。この邪悪なる金狐から妾を守っておくれ!』
トリニティネットでの絶叫が全員の頭に響いた。あまりにもの絶叫に剣奈の涙も引っ込んでしまった。
巫っ子『え、えっと、その……。きゅうちゃ?白ちゃも悪気はなかったんだよ……。ボク、泣いてないから。男の子だからこんなことでは泣かないから……』
古刀『うむ。ワシには見えておったぞ?目に黒い塵が目に入るのを。剣奈の目を通しての』
嘘である。結紐を通じて来国光が剣奈と視覚情報を共有できるのは事実である。しかし……、剣奈の目に塵など入っていなかったのである。涙である。しかし……来国光は剣奈の名誉のために虚言を言ったのである。もちろん剣奈以外の全員それをわかっている。
金狐『ホコリが舞っちゃったのかしらね。剣奈、大丈夫?ティッシュ出そうか?』
巫っ子『ううん。ゴミはもうとれたよ。ごめんね。心配させて』
金狐『ううん。いいの。目にゴミが入って視力が悪くなったら大変だものね』玉藻が優しく笑って言った。
巫っ子『ありがとう。あ、それとね。白ちゃんを責めないであげて?ボクわかるんだ。白ちゃんには悪気はなかったんだよ。正直に言っただけだったんだよ』
――――
剣奈の心に図工の時間の出来事が思い出されていた。小学校三年生の秋、図工の時間のことだった。班がいくつか作られた。みんな机を並べて紙粘土で自分をモデルにした粘土細工を作っていた。
剣奈は自分の作った自分の顔を眺めてぽつりとつぶやいた。
「……なんか、ボクの顔、すごく変になっちゃった……」
「「「「クスクスクスクス」」」」
「「「「アハハハハハハハ」」」」
少し離れた席から声がした。小声で……けれどしっかりと剣奈の耳に届く大きさで……
「え、今、顔が変、だってー……!」結衣が半笑いしながらあざけった。
「剣奈ちゃんの顔が変なんだってー」結衣に便乗して真由が言った。
「えー、どこが? 顔だけじゃなくて身体全部じゃないの」七海がしらじらしく言った。
「ねえみんなー、見てー、剣奈ちゃん、自分の顔が変って、自分で言ってるー」彩花がわざとみんなに聞こえる声で言った。
「「「「クスクスクスクス」」」」
四人はわざとらしく顔を合わせて笑いあった。
「てかさ、さっきも「なんでこんなことやるの」とか言ってなかった?」結衣が嘘を言った。
「ねー、やる気あるのかしら?」彩花があきれ顔でつぶやいた。
「あーあ。まーた剣奈かー。ほんっと空気読んでないよねー」七海が冷たい視線で言った。
「てかさ。そういうの普通言わなくない?」真由がみんなに聞こえるように言った。
「「「「だよねー!クスクスクスクス」」」」
「おしゃべりはやめなさい」先生が注意した。
教室が静かになった。けれど、その場に残った空気がいたたまれなかった。聞こえよがしに繰り広げられた陰口。嘘をつかれての言いがかり。剣奈は手を止めて俯いた。
ポタリ ポタリ
粘土に涙が落ちた。不格好でへんてこな紙粘土の顔が泣き顔になった。剣奈はそのゆがんだ顔がまさに自分そっくりだと思った。
「「「「クスクスクスクス」」」」
教室の片隅で四人の女の子たちの嘲笑がいつまでも続いた。その笑い声は……剣奈の心に浸み込んでいった……
――――――
*「霊脈気」:『剣に見込まれヒーロー(♀)に:七章』「156 朝日に輝く霊脈気結晶 あまたの失敗を乗り越えて」
*「ピチャン」「剣奈のお漏らし」:『赤い女の幽霊:一章』「5 怯える剣奈、恐怖でおもらし」
*「白蛇がその場にいた」:『赤い女の幽霊:一章』「11 最終話 剣奈、鍾乳洞で渾身の巫女舞を舞う」
*「蒼三日月刃」:『赤い女の幽霊:二章』「2-20 九尾の断固たる想い 阿修羅は舞い 闇坂村は滅す」など。
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