第3話 黒霧の中の影

 洞窟の奥で蠢く影が、じりじりとこちらへ歩み寄ってきた。

 赤黒い瘴気が揺らぎ、その姿がはっきりと見える。


 ――女の形をしていた。

 だが人間ではない。肌の半分は黒曜石のように硬化し、血走った瞳がぎらつく。吊り上がった口元には、不気味な笑み。


「エルエッタ=グレスルス……」


 名を告げたのは彼女自身だった。

 瘴気に響く声はざらついて、耳を切り裂くようだ。


「魔王様の器……あんたを殺せば、私は上へ行ける」


 ぞくりと背筋が凍る。

 一般級とはいえ、名を持つ魔の者――ただの雑兵ではない。


「エイル、油断するな。こいつは……強い」

 ヴェルダンが低く呟いた。


 次の瞬間、影が裂けたように動いた。

 エルエッタの腕が鞭のようにしなり、鋭い爪が僕の頬をかすめる。火花のように熱い痛み。反射的に剣を振り下ろすが、黒曜石の硬化した皮膚に弾かれた。


「ッ……!」

 衝撃で手が痺れる。

 エルエッタは嗤い、瘴気の中に姿を溶かした。


「上か!」

 ヴェルダンが叫ぶと同時に、頭上から刃のような脚が振り下ろされる。

 咄嗟に彼が腕で受け止め、火花を散らした。


「遅ぇんだよ!」逆に拳を叩き込み、敵を弾き返す。


 その隙に僕は突っ込んだ。

「はぁぁッ!」


 剣先が黒い胸を狙う――だが瘴気が遮り、感覚を奪う。

 次の瞬間、背中に衝撃。地面に叩きつけられ、呼吸が止まった。


「エイル!」

 ヴェルダンが飛び込む。彼の拳と脚が瘴気を裂き、確かにエルエッタの頬を打ち砕いた。硬化が割れて血が飛ぶ。


「……いいな」

 エルエッタは舌なめずりするように嗤った。

「その目……熱を帯びてきたな。魔王様の器らしい、忌まわしい黒炎。あれこそがあんたの正体だろう?」


 ぞわり、と右目が熱を持つ。

 次の瞬間、視界が灼けるように白く反転し、そこから黒い炎が噴き出した。


「う、ああああああッ!!」


 頭の中に声が流れ込む。

 それは自分自身の声なのに、自分ではない。


 ――壊せ。焼け。すべて滅ぼせ。


 心臓が黒く染まり、鼓動が狂った太鼓のように響く。

 思考が塗り潰されていく。自分が「僕」である証が、ひとつひとつ剥がれ落ちていく。


「これだ……! それこそが魔王様の器だ!」

 エルエッタの歓喜の声が遠くで響く。


 次の瞬間、黒炎が奔り、彼女の瘴気を呑み込んだ。

 笑い声が悲鳴に変わる。

 それでも僕は止まれない。止まるという選択肢そのものが消えていた。


「エイル!! やめろ!」

 ヴェルダンの声が耳を打つ。

 けれど音はすぐに炎に溶かされ、意味を失う。


「俺を見ろ! エイル!」

 その叫びだけが、不思議と鮮明に届いた。赤い瞳が、暗闇の中で僕を縫い止めている。


「お前は魔王なんかじゃねえ! 俺の仲間だ!」


 胸の奥で何かが強く鳴った。

 忘れていた自分の名が、再び灯る。


「……僕は……僕だ……!」


 黒炎がしぼみ、洞窟に静寂が戻った。

 気づけば、エルエッタは血に塗れながらもなお息をしていた。


「覚えてろ……その黒炎が……お前を喰らい尽くす日が来る……!」

 呻き声を残し、瘴気と共に姿を消した。


 剣を支える手が震え、荒い呼吸が止まらない。

「勝った……のか?」

「奇跡的にな」ヴェルダンが笑う。だがその瞳は、僕の右目を心配そうに見ていた。


 霧はまだ洞窟の奥から漂い続けていた。

 僕らの戦いは、これで終わりではなかった。

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